「韓国で最も独創的な問題作を書く新鋭作家」とのことですが、なんともわかりにくい作風です。女性暴行事件、原発事故、光州事件などの社会的問題と向き合っていることは理解できるのですが、事件と著者との距離感が独創的で幻想的で、作品を理解するための足場を作りにくいのです。それでいて強烈な印象が浸み込んでくるのだから始末が悪い。良くも悪くも強烈な存在感を発している作家といえるでしょう。
「そのとき俺が何ていったか」
カラオケ店に乱入してきた男に暴力を振るわれ、一生けんめい歌うまで殴り続けられる恐怖に晒された少女には、どのような運命が待っているのでしょう。「恐怖映画のオープニング」という著者の意図は成功しすぎているようです。
「海満(ヘマン)」
タイトルは著者の小説にたびたび登場する架空の島。厳しい競争社会である首都からこの島に逃避してきた人々は、帰りたくなくなってしまうようです。この島に残っても消え去っていくだけなのに。
「じゃあ、何を歌うんだ」
1980年5月18日に起きた光州事件は、長く隠蔽されたこともあって未だに社会的対立を象徴するものとなっています。小さなバーで起きた歌をめぐる対立は、どのように収拾されたのでしょうか。スペイン内戦時のゲルニカや、1960年代の南米や、1970年代のアイルランドを思わせる事件に対する距離感の取り方は難しそうです。
「私たちは毎日午後に」
ここからの3篇は福島原発事故に触発された作品です。その衝撃は、その1年後に起きた釜山近郊の古里(コリ)原発の電源喪失事故が1年以上も隠蔽されていた事件によって増幅されていきました。
「暗い夜に向かってゆらゆらと」
韓国で最初に建造された古里(コリ)原発が大事故を起こし、多くの人が釜山を離れたという設定の物語。過去からは「輝かしい未来」に見えていた「今」は、なんとむなしいものになってしまったのでしょう。「今」では釜山タワーも失われてしまったのでしょうか。
「冬のまなざし」
古里(コリ)原発が大事故を起こしてから3年後、原発事故を題材とするドキュメンタリー映画を見た語り手は、その映画の中途半端さと、海満(ヘマン)にたどりついた避難民との生活を対比させてしまいます。彼らの多くは、事故の修復作業や食料品の宅配に従事する若い非正規労働者たちでした。
「愛する犬」
「犬になりたい」と言った少女は、飼い犬と入れ替わってしまったのでしょうか。犬として死んだ少女は、別の犬となって元に戻る日を待っているというのですが。しかし、そもそもそんな言葉は発せられなかったのかもしれません。
「もう死んでいる十二人の女たちと」
女性たちを強姦殺害した男が、被害者である女性たちに何度も何度も殺害される運命に陥ります。しかし女たちの復讐は完璧とは言えません。女性たちが先に殺されたことは無念であり、どんな方法でも取り返しがつくものではないのですから。それでも語り手は、忘れられていく殺人の記憶を拾い集めて記録していくのです。生きている女性たちが少しでも安心できるように。
2021/10