りぼんの読書ノート

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シェイクスピアのたくらみ(喜志哲雄)

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聖書と並ぶ「古典」であり、欧米人の基本的教養ともなっているシェイクスピア。でも本来は実際に舞台にかけるための戯曲であり、観客の反応を計算しつくして書かれたものというのが本書の主張。18世紀のロマン派によるヒューマニスティックなシェイクスピア観を排して、作劇手法の観点から作品を捉えなおし、「したたかな作家」としてのシェイクスピア像を「発見」しようという試みです。章立てに従って趣旨を述べておきましょう。

第一章:結末がわかっている劇はどこがおもしろいか。
史実に基づく「シーザー」、「リチャード三世」はもちろんのこと、「ロミジュリ」などでは冒頭にストーリーが紹介されてしまい、筋立ては観客にもわかってしまっていたんですね。登場人物たちが不幸なのは、不幸な結末を迎えるからではなく、避けようもない不幸から逃れようと、無駄な努力を重ねるからのようです。まさに、悲劇性は作品と観客との関係によって成立するという、お手本です。

第二章:喜劇の観客は何を笑うか。
「じゃじゃ馬鳴らし」や「お気に召すまま」などの喜劇でも、同じ手法が使われています。観客には登場人物の勘違いや間違いがわかっている状況を作り上げ、観客を優位に立たせることが、すなわち状況認識の差が笑いを生むのです。

第三章:悲劇の主人公はなぜすぐ登場しないか。
四大悲劇といわれる「ハムレット」、「オセロー」、「マクベス」、「リア王」では、劇がかなり進行してから主人公が登場するのですが、これは、観客が主人公と一体化することを妨げる異化効果を狙ったものと解釈されます。悲劇の主人公に感情移入させないのが、楽しく劇を見せるコツなのかもしれません。ついでながら、運命に流される他の主人公と異なって、運命を知りながら運命に挑戦するマクベスだけが、本来の意味での「悲劇」とされています。

第四章:不快な題材はどう処理されるか。
セックス、暴力などの不快な題材は、「古典の焼き直し」というような型にあてはめて、観客と一定の距離を置くようにしているとのこと。

第五章:超自然的存在はどんな役割を演じるか。
「真夏の世の夢」や「テンペスト」などの超自然的存在が登場する劇は、シェイクスピアの本領が発揮される主題のようです。「劇中劇」の手法によって、現実は虚構かもしれないし、主体性は幻想かもしれないとの思いを観客に抱かせるのです。劇の虚構性を強調することが、かえって現実の虚構性を意識させ、逆転して劇の現実性を浮かび上がらせていくなんて、まさに超絶技巧!

劇場で見たのは「ハムレット」だけですし(映画では「マクベス」や「ロミジュリ」なども見ましたが、現代的な脚色がなされています)、全ての戯曲を読んだわけではありませんが、「人生は芝居。世界は劇場。人間は俳優」とのシェイクスピア世界を垣間見ることができました。

2008/4