りぼんの読書ノート

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日本文学全集6 源氏物語 下 概説(池澤夏樹編/角田光代訳)

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1週間かけて『源氏物語』を読み通しました。じっくりと読むやり方もあるのでしょうが、一気読みすることでかえって理解できたことも多かったように思います。まずは素晴らしい現代語訳を提供してくれた角田光代さんに感謝です。

 

下巻は、「宇治十帖」を中心とする光君亡き後の物語になります。編者の池澤夏樹氏は「障害物競争だと思っていたら、ハードルをすべて超えたところから今度は中距離走が始まる」と述べていますが、全く同感です。私としては「障害物競争」を「マラソン」に置き換えたい気持ちですが。ただ宇治の「源氏物語ミュージアム」を訪問して、宇治の物語世界に浸ってきたのはほんの数年前のことなので、まだ記憶に新しかったことが役に立ちました。

 

池澤氏は「明らかに近代文学に属するものが千年前に成立した」ことを「とんでもない奇跡」と語ります。これも全く同感です。登場人物の心理描写が重要な役割を果たす物語というものは、世界的にみてもその後数百年は登場していないのですから。『デカメロン』や『神曲』は14世紀の作品であり、中国で「四大奇書」が成立したのは明代後期の16~17世紀のこと。日本では18世紀に近松門左衛門が登場するまで、軍記や説話や随筆しか生まれなかったように思います。光君あとの下巻では登場人物は小粒になってしまいましたが、その分心理劇の要素は深まりました。薫君、匂宮、大君、中君、浮舟が織り成す物語は「男女5人恋物語」としてTVドラマになっても良いほどに近代的なのです。

 

中でも重要な役割を果たすのは、2人の男性に恋され、理性と感情の矛盾に耐えかねて宇治川に身を投げる浮舟です。角田さんは「実に多くの女性たちが登場してきたこの物語において、なぜ最後がこの人なの?」と自問したそうです。自分の望みを持つこともなく諦観に支配され、運命に抗えずに流されるだけの女性が到達点でよいのか、と言うのです。角田さんの解釈は本書のあとがきを読んでいただきたいのですが、あっけない幕切れの後で彼女自身が選ぶ新しい人生が始まるのではないでしょうか。千年前から現代へと至る読者に委ねられている、オープンエンディングではないのかと思うのです。

 

2021/7

日本文学全集5 源氏物語 中 各帖(池澤夏樹編/角田光代訳)

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前の記事で本書に関する概説を書いたので、ここでは各帖ごとの概要をメモしておきます。

 

【玉鬘十帖】

22帖「玉鬘」いとしい人の遺した姫君

23帖「初音」幼い姫君から、母に送る新年の声

24帖「胡蝶」玉鬘の姫君に心惹かれる男たち

25帖「蛍」蛍の光が見せた横顔

26帖「常夏」あらわれたのは、とんでもない姫君

27帖「篝火」世に例のない父と娘

28帖「野分」息子夕霧、野分の日に父を知る

29帖「行幸内大臣、撫子の真実を知る

30帖「藤袴」玉鬘の姫君、悩ましき行く末

31帖「真木柱」思いも寄らない結末

亡き夕顔と頭中将の娘である玉鬘が、運命のめぐり逢わせで光君に後見されることになりました。光君の弟にあたる蛍兵部卿や、異母兄であることを知らない頭中将の息子・柏木らから求婚されますが、案の定、光君も玉鬘に邪心を抱いてしまいます。しかし玉鬘は光君の求愛を拒み通し、強引に関係を迫った髭黒大将なる意外な人物と結ばれるのでした。「初音」から「行幸」で描かれる1年間の六条院の風情も楽しめます。

 

32帖「梅枝」裳着の儀を祝う、女君たちの香

33帖「藤裏葉」夕霧、長年の恋の結実

40歳となった光君は准太上天皇という待遇を受けることになります。明石の姫君は入内し、息子・夕霧も幼馴染の雲居雁との結婚を認められ、光君の栄華は絶頂に達しました。【第1部完】

 

34帖「若菜 上」女三の宮の降嫁、入道の遺言

35帖「若菜 下」すれ違う思い

いよいよ【第2部】が始まります。愛娘・女三の宮の将来を気遣う朱雀院からの依頼で、光君は彼女を正室として迎えることを承諾させられてしいます。紫の上は動揺を隠して正室の座を明け渡しますが、子供のいない自分の境遇の不確かさに気付いてしまいます。やがて朱雀院も内侍の朧月夜も出家。彼女とは20年以上も関係を持ち続けていたのですね。冷泉帝は朱雀院系統の東宮に譲位して、光君の血統は皇室に残らないことになりますが、これでよかったのでしょう。

そして4年後、悲劇のきっかけは女三の宮の御簾から逃げ出した1匹の猫でした。元頭中将の息子で、源氏の息子・夕霧の親友でもある柏木が、御簾の合間から垣間見た女三の宮に恋焦がれてしまったのです。光君が、六条御息所の死霊によって病を得た紫の上の看護にかかりきりになっている際に、柏木は思いを遂げてしまいます。やがて女三の宮は懐妊し、真相に気付いた光君に責められた柏木は、恐怖のあまり病に伏してしまうのでした。

 

36帖「柏木」秘密を背負った男児の誕生

やがて女三の宮は、不義の子・薫を生み落とします。かつて義母の藤壺と不義をなして生まれた冷泉帝を我が子と呼ぶことが叶わなかった光君は、因果応報の深さに慄くのでした。心身弱った女三の宮は出家し、柏木は絶望の中であっけなく死去。

 

37帖「横笛」親友の夢にあらわれた柏木の遺言

38帖「鈴虫」冷泉院と暮らす秋好中宮の本音

39帖「夕霧」恋に馴れない男の、強引な策

柏木の一周忌の際に形見の横笛を受け取った夕霧は、柏木の霊から「伝えたい人はほかにいる」と伝えられ、幼い薫に亡き友の面影を感じます。さらに柏木の未亡人で女三の宮の姉である落葉宮に恋心をつのらせて、正妻の雲居雁から強く責められることになるのでした。その一方で退位した冷泉院と暮らす秋好中宮は、亡き母の六条御息所の追善供養を行います。最も高貴で最も優れた女性であった六条御息所の霊が成仏したことを願います。

 

40帖「御法」露の消えるように

41帖「幻」光君、悲しみに沈む

番外「雲隠」

大病以来、体調が優れなかった紫の上が、光君に出家を拒まれたまま静かに亡くなります。明石の御方や花散里ら光君の妻たちや養女の明石中宮らとも心を通い合わせ、全てを取り仕切っていた完璧な女性でした。享年43歳。見方を変えれば『源氏物語』とは「雀の子を犬君が逃がしつる」と叫んでいた10歳の少女の生涯を描いた作品でもあるのです。最愛の妻を亡くした光君の悲しみは一様ではなく、生きる力を失ってしまったようです。そして翌年の冬を最後に消息は絶え、本文のない「雲隠」で世界史上に類のない長編小説の【第2部】は終わります。

 

2021/7

日本文学全集5 源氏物語 中 概説(池澤夏樹編/角田光代訳)

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源氏物語』を3部に分けるなら、【第1部】の青壮年期が1帖「桐壷」から33帖「藤裏葉」。【第2部】の晩年期が34帖「若菜上」から41帖「雲隠」まで。光源氏亡き後の【第3部】が42帖「匂宮」から54帖「夢浮橋」までとなります。この中巻には22帖から41帖までが収められていますが、はじめの10帖は傍系の「玉鬘十帖」であり、続く2帖は第1部の締めにすぎない雰囲気ですので、実質的には【第2部】をじっくり読むことになります。

 

夕顔の遺児・玉鬘を巡る物語は【第2部】に入る前のウォームアップのような位置づけですが、かなり近代小説に近づいている印象です。玉鬘の後見人となった光君が次第に彼女に心惹かれていく様子や、執拗な光君の誘惑を拒み通す玉鬘の心象がこれまで以上に丹念に描かれているのです。そして、予定調和や説話的な悲劇の範疇に収まらない、思いがけない運命が玉鬘を待っていました。相変わらず最上級の形容詞で褒め称えられながらも、ついに若い女性から嫌われるようになってしまった光君に老いが忍び寄ってきています。まだ30代後半なんですけれどね。

 

そして光君の栄華に陰りが射し始める34帖「若菜」で【第2部】が始まります。編者の池澤夏樹氏が「源氏物語は「若菜」に尽きると言ってもいい。すべてはこの2帖のための準備だった」とまで言い切るほどの物語性が、ここにはあるのです。無邪気な猫が幕が上がる悲劇。無知で愚かであるがゆえに運命に翻弄され、周囲の者たちをも悲劇に巻き込んでいくネガティブヒロインの女三の宮。彼女に恋して悲劇を招き寄せてしまうアンチヒーローの青年・柏木。過去の大罪が逆の形で自身に撥ね返ってくるという苦悩に耐えるヒロインの光君。絶望して出家を願うヒロインの紫の上。登場人物の名前と時代背景を変えれば、シェークスピア悲劇といっても通用するほどでしょう。

 

源氏物語』の主人公はもちろん光君です。しかし私には彼はトリックスターにすぎず、真の主人公は紫の上ではないのかと思われるのです。10歳の頃に光君に見初められて幼妻となってから、光君の浮気や隠し子に耐えることはもちろん、初恋の人・藤壺と比較され続け、実子を得ることないまま光君を支え続けた紫の上が、最後の最後に出家を願うに至るまでの心情の動きは、あまり触れられていないもののドラマティック。彼女の完璧さに頼り切っていた光君は、彼女の死後にはじめて彼女が隠してきた苦悩と孤独を痛感し、彼女を偲ぶだけの存在になり果ててしまったほど。ドラマとは葛藤なのです。短編の主役なら六条御息所ですね。

 

2021/7

 

日本文学全集4 源氏物語 上 各帖(池澤夏樹編/角田光代訳)

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前の記事で本書に関する概説を書いたので、ここでは各帖ごとの概要をメモしておきます。

 

1帖「桐壺」光をまとって生まれた皇子

まだ小説とは言い切れない王朝物語のトーンで光君の誕生が語られます。帝に深く愛された桐壷更衣は気品に満ちた光君を生んだものの、後宮での怨嗟を浴びて心労のあまり3歳の光君を遺して死去。帝は有力な後見者のいない光君を東宮とはできず、源の姓を与えて臣籍に降下させます。12歳で元服した光君は、帝が新たに迎えた桐壷更衣によく似た藤壺宮に恋心を抱きますが、左大臣の娘である葵の上を妻に迎えさせられます。

 

2帖「帚木」雨の夜、男たちは女を語る

3帖「空蝉」拒む女、拒まぬ女

4帖「夕顔」人の思いが人を殺める

2帖から4帖までは傍系の物語になります。おそらくですが、3編セットの構成で書かれた続編なのでしょう。「雨夜の品定め」で有名ですが、男たちの勝手な女性評に対する紫式部のコメントも楽しめます。光君はさっそく恋愛の実践をはじめますが、方違えに訪れた家で若い後妻の寝所に忍び込むなんて犯罪ですね。度重なる誘いを拒み続けた女性が空蝉であり、彼女と間違われたまま関係を持ってしまう先妻の娘が軒端荻です。しかし次の恋愛は試練でした。頭中将のもとから姿を消していた女性・夕顔と激しい恋に落ちますが、彼女は光君が二股をかけていた女性の生霊に襲われて儚くなってしまうのです。夕顔が頭中将との間にもうけた幼女(後の玉鬘)は乳母に連れられて身を隠し、受領の妻である空蝉も軒端荻も任地へと下っていきました。17歳の光君は秘めた恋の辛さを知るのです。

 

5帖「若紫」運命の出会い、運命の密会

若紫登場。物語は本筋に戻ります。冒頭で従者に明石入道と娘の噂話をさせていることから、ここからじっくりと腰を据えた長編執筆に入ったのでしょう。藤壺の同母兄の娘ながら、母を失い父からも顧みられずに祖母の尼に育てられていた少女に惹かれた光君は、彼女を自邸に引き取ります。これも今なら犯罪ですね。その直前に光君は藤壺と密通し、一夜の契りで不義の子を身籠らせてしまうのでした。今ならもちろん大炎上です。

 

6帖「末摘花」さがしあてたのは、見るも珍奇な紅い花

再び傍系の物語です。零落した悲劇の姫君との噂を聞いて、頭中将と競い合って逢瀬にこぎつけた相手は、醜くて世間知らずの女性でした。しかし光君は彼女の貧しさと素直さを見捨てられず、生涯お世話するのです。

 

7帖「紅葉賀」うりふたつの皇子誕生

藤壺が生んだ男子を不義の子とは知らず、帝はこの皇子を東宮に立てるために譲位を決意。さらに現東宮の母である弘徽殿女御をさしおいて、藤壺中宮立后するのでした。還暦近い源典侍を、冗談半分で頭中将と競い合うエピソードは、傍系の物語の書き残しだったのでしょうか。

 

8帖「花宴」宴の後、朧月夜に誘われて

光君が宴の後に素性も知らずに契った女性は、義父の左大臣のライバルである右大臣の六女・朧月夜でした。このことが、後に大問題を引き起こすのです。私の中では、朧月夜は不道徳セレブのイメージです。

 

9帖「葵」いのちが生まれ、いのちが消える

前半のハイライトです。葵の一行から車争いで屈辱的な扱いを受けた六条御息所は、恨みと嫉妬から生霊となって、お産の床に臥せる葵に憑りつくのでした。難産の末に男児(後の夕霧)を生んだ葵は数日後に急死。かつて夕顔を死に追いやったのも彼女だったのでしょう。家柄も能力も美貌も優れた女性の弱点は執着心だったようです。一方の光君は素晴らしい女性だった葵とついに親密な関係を築けなかったことを悔やみますが、四十九日後に紫の君と新枕を交わし、正妻とすることを決意するのでした。まだ21歳ですしね。

 

10帖「賢木」院死去、藤壺出家

自らに絶望した六条御息所は、斎宮となった娘とともに伊勢へと下っていきます。野々宮神社での別れの場面ですね。ほどなくして帝は崩御。光君の異母兄である朱雀帝が即位し、藤壺中宮は彼女を求め続ける光君を拒んで出家。悲嘆にくれる光君は朱雀帝の尚侍となっていた朧月夜と逢瀬を重ね続けていますが、右大臣に現場を押さえられてしまいました。

 

11帖「花散里」五月雨の晴れ間に、花散る里を訪ねて

最も短い巻です。故帝の妃のひとりを訪ねた光君は、彼女の妹と結ばれます。地味な容貌と性格にもかかわらず、優れた人格と才能を有する花散里は、生涯に渡って光君に信頼され続けることになります。

 

12帖「須磨」光君の失墜、須磨への退去

13帖「明石」明石の女君、身分違いの恋

朧月夜との不倫が発覚して右大臣一派から追いつめられた光源氏は、自ら須磨への退去を決意します。官職を辞し、領地や財産を紫の上に託し、藤壺左大臣などに暇乞いをして都落ちしたわけですから、二度と戻ってこれない可能性も覚悟していたのでしょう。明石入道の屋敷に迎えられた光君は、入道の一人娘と契ります。そのことを正直に紫の上に知らせて叱られるのですが、正直に打ち明けていたことが将来的の良い関係を築くことに結びついたようです。都では太政大臣(元右大臣)が亡くなり、弘徽殿大后も病んだことで、気弱になった朱雀帝は光君の召還を決意。既に身籠っていた明石の君を必ず都へ迎えると約束して、光君は都へと戻っていきます。

 

14帖「澪標」光君の秘めた子、新帝へ

都に戻った光君は罪を許されて昇進。朱雀帝は東宮元服を機に位を退き、光君と藤壺の息子である冷泉帝が誕生。その頃都に戻っていた六条御息所は病に倒れ、前斎宮であった娘には決して手を出さないよう、見舞いに来た光君に言い残して亡くなります。約束を守った光君は、前斎宮を養女に迎えて冷泉帝へ入内させることにするのでした。

 

15帖「蓬生」志操堅固に待つ姫君

16帖「関屋」空蝉と、逢坂での再会

三たび傍系の物語。困窮を極めていた末摘花と、夫を亡くして出家していた空蝉に再会した光君は、2人を自邸に迎え入れます。関りを持った女性をないがしろにしない光君の性格が褒め称えられるようですが、かつての悪事の後始末をして「実はいい人」と思わせる作戦にしか思えません。

 

17帖「絵合」それぞれの対決

光君が後見する前斎宮チームと、権中納言(元頭中条)の娘である弘徽殿女御チームの絵合わせ対抗戦が冷泉帝の前で行われます。光君による須磨の絵日記で前斎宮が勝利しますが、競ったのは絵だけだったのでしょうか。後に前斎宮は秋好中宮として立后することになるのです。

 

18帖「松風」明石の女君、いよいよ京へ

明石の御方と花散里を住まわせる予定の二条東院が完成。嵯峨野まで出てきていた明石の御方に再会した光君は、姫君を紫の上の養女として将来の妃候補として育てようと決意。子ども好きの紫の上も承諾するのですが、娘と引き離される明石の御方の心が思いやられます。

 

19帖「薄雲」藤壺の死と明かされる秘密

明石の御方は姫君を源氏に委ねることを決断。その翌年に頭中将と葵の上の父である太政大臣(元左大臣)が亡くなり、さらには病に臥していた藤壺崩御。悲嘆する光君。しかし法要の後に、藤壺の近くに仕えていた僧が、出生の秘密を冷泉帝にを告げてしまうのです。衝撃を受けた帝は、実父である光君に譲位の意向を告げますが、それはあってはいけないことでしょう。

 

20帖「朝顔」またしても真剣な恋

しばらく光君の浮気癖は止まっていたようですが、従妹にあたる前斎院の朝顔にアタック。もともと正妻の候補であった姫君でしたが、光君と深い仲になれば六条御息所のような運命をたどるのではないかと恐れて、誘いを拒み続けます。光君の不敗神話もここで終わったようです。この時32歳。

 

21帖「少女」引き裂かれる幼い恋

葵の上が命と引き換えに生んだ息子・夕霧が元服を迎えますが、光君は息子を優遇せずに大学寮に入学させます。夕霧は幼馴染である雲居雁を慕っていますが、父親の内大臣(元頭中将)はそれを許しません。その背景には、冷泉帝の妃争いで内大臣の娘の弘徽殿女御が光君の押す秋好中宮に敗れたことにあったのでしょう。ともあれ35歳になった光君は、息子の恋愛問題に悩む年ごろになったわけです。「寅さん」がシリーズ後半で恋愛の現役からコーチ役に変わったことを思い出しました。完成した六条院の春の町に紫の上、夏の町に花散里、秋の町に秋好中宮、冬の町に明石の御方を迎え、太政大臣ともなった光君の栄華もほぼ頂点に達しています。

 

2021/7

日本文学全集4 源氏物語 上 概説(池澤夏樹編/角田光代訳)

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源氏物語』を通して読むのは、高校生の時に岩波の「日本古典文学大系(通称)赤大系」全5巻を読んで以来です。その時はいわば古文勉強であって、脳内で口語訳するのに必死のあまり、全体の物語構成や表現の素晴らしさを味わう余裕などありませんでした。その後、注釈本や抄訳本、さらには『源氏』に題材を得た小説作品などを読む機会があり、『源氏物語』の偉大さを理解してきたつもりでしたが、今般角田さんの新訳が出たことで、あらためて通読してみようと思った次第です。

 

角田さんは現代語訳に際して、まず読みやすさを優先したとのことです。「物語世界を駆け抜けるみたいに」一気読みできるのはありがたいですね。原文は「人称代名詞が極端に少なく、巧妙な敬語の使い分けで誰のことかを」理解しなくてはならないのですが、そこを丁寧に記述してくれたことで一気読みが可能になっています。とりあえず「上巻」は2日で読めました。次いで考えたのは「作者の声」とのとで、そこだけ「ですます調」で記述されています。千年前に紫式部が感じたことがコメントされているわけです。シリーズ編者の池澤夏樹さんによる「現代語に訳すとは、モダニズムに仕立て直すとは、こういうことである」との解説には、全く同感です。

 

本書は上中下の3巻構成であり、上巻では1帖「桐壷」から21帖「少女(おとめ)」までが収められています。光源氏の誕生から35歳の中年期に至るまでの物語であり、中盤の主人公となる玉鬘と後半の転機をもたらす女三の宮を除いて、ほとんどの登場人物がここまでに出揃っています。藤壺、葵の上、六条御息所、若紫、朧月夜、明石らの主役級の女性たちと出会いながら、挫折も経験しつつ栄達を極めていく過程の物語は、33帖「藤裏葉」で頂点に達するのですが、22帖からは傍系の「玉鬘十帖」ですので、【第1部:青壮年期】の大半が収められていることになります。ちなみに【第2部:晩年期】は34帖「若菜」から41帖「雲隠」まで。「宇治十帖」を含む光源氏亡きあとの物語が【第3部】となるわけです。

 

あらためて読んでみると、終始「王朝物語トーン」で描かれる1帖「桐壷」はこれだけで成立している作品ですね。紫式部はこの時点ではまだ、この物語を超大作へと仕上げていくつもりはなかったのかもしれません。しかし著者のコメントが登場し始める2帖「帚木」、3帖「空蝉」、4帖「夕顔」のいわゆる「帚木三帖」を書き綴っていく過程で、大構想が生まれてきたように思えます。研究者の方々がどう考えているのか、知りたいところです。各帖の物語にも触れていきたいのですが、概説だけで十分に長くなってしまいました。記事をあらためてメモしておくことにします。

 

2021/7

2021/6 Best 3

1.大統領の秘密の娘(バーバラ・チェイス=リボウ)

アメリカ独立宣言の起草者としても有名な第3代アメリカ合衆国大統領トマス・ジェファソンには、黒人奴隷の愛人に産ませた混血の子供たちがいたといいます。大統領選挙中にスキャンダルとして攻撃されたものの無視され、長らく忘れられていましたが、近年になってDNA鑑定によって事実認定されたとのこと。白人としての外見を有しながら法的には黒人である娘ハリエットの生涯をフィクションとして描いた本書によって、著者は魅力的な人物を創造しました。白人社会への逃亡を果たしながら生涯に渡って人種問題に苦悩した主人公の存在が、人種間に架空の境界線を引いたことの矛盾を強く指摘しています。

 

2.クララとお日さま(カズオ・イシグロ

子供の愛玩用に開発された人工フレンドのクララの視点から歪んだ人類社会を俯瞰した本書は、「人間はもはや複製可能な存在なのか」という問いを投げかけています。人間の中にはデータ化できない特別なものがあるのでしょうか。クララは、それは個人の中にあるものではなく、その特定の個人を愛する人々の中にあるとの思いに至ります。最近聞いた中でも圧倒的に素晴らしい言葉だと思います。

 

3.わたしたちが光の速さで進めないなら(キム・チョヨプ)

韓国で人気急上昇中の20代リケジョ作家によるSF短編集です。今年1月にTV放送された「第2回世界SF作家会議」で知りました。「とうてい理解できない何かを理解しようとする物語が好き」と語る著者は、ユートピア的な未来においても存在するであろう社会的弱者に寄り添う視点を持っています。それなくしては、科学の発展は有害にならざるを得ないのです。

 

【次点】

・アイオーン(高野史緒

・人之彼岸(郝景芳(ハオ・ジンファン))

アメリカにいる、きみ(チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ)

・愉楽(閻連科(エン・レンカ))

 

【別格】

・一絃の琴(宮尾登美子

 

【その他今月読んだ本】

・入江のほとり(キャサリンマンスフィールド

ウィトゲンシュタインの愛人(デイヴィッド・マークソン)

・天使も怪物も眠る夜(吉田篤弘

・令嬢クリスティナ(ミルチャ・エリアーデ

・いかさま師ノリス(クリストファー・イシャウッド)

・あしたの華姫(畠中恵

・まことの華姫(畠中恵

・大名倒産(浅田次郎

・ポリー氏の人生(H・G・ウェルズ

・高瀬庄左衛門御留書(砂原浩太朗)

・ラー(高野史緒

・からころも(篠綾子)

・たまもかる(篠綾子)

・塵に訊け!(ジョン・ファンテ)

・如何様(高山羽根子

 

2021/6/30

如何様(高山羽根子)

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敗戦後、戦地から復員した画家は本人なのでしょうか。完璧な書類を備え、以前と同様の画力を有しているのに、その男は出征前とは似ても似つかぬ姿をしていたのです。これは戦地で病を得たせいなのでしょうか。しかも時を置かずして男は失踪してしまったのです。彼と懇意にしていた美術系出版社の編集部員から調査を依頼された女性記者は、男が兵役中に嫁いだ妻、水商売の妾、画廊主、軍部の関係者らの証言を聴取するのですが、彼女がたどりついたのは男が贋作を得意としていたという事実だけでした。

 

著者の他の作品と同様に、本書もまた思考実験のような内容です。「人は、まったく同じものがふたつ以上あると、ひとつを本物、残りを偽物と決ないと落ち着かない生き物」なのでしょうか。そして本物を探し求めることに何の意味があるのでしょうか。そもそも量産品のように「まったく同じもの」が複数あるなら、どれかを本物として別のものを偽物と定めることが可能なのでしょうか。人間についてだけ真贋を判定できるというのは、人間の思い上がりなのかもしれません。そもそもそれにしたって、ごく親しい人たちにしか意味がないことなのでしょうし。

 

駅伝のコーチとして異郷に赴いた女性の物語であるラピード・レチェ」が併録されています。これもまた表題作とは別の形で「本当らしさ」を掘り下げた作品です。特殊な競技で特殊なケースに用いられる「無念の」「繰り上げ」「スタート」という言葉は、日本人だけが理解できるキラーフレーズなのですね。

 

2021/6