りぼんの読書ノート

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百人一首(小池昌子訳)日本文学全集2

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幼いころからカルタでなじみの深い百人一首なので、万葉集ほどの「発見」は少ないのですが、それでもあらためて気づかされることは多いのです。いくつか記しておきましょう。

百人一首というと、清少納言紫式部和泉式部赤染衛門小野小町らの女流歌人を含む王朝歌人たちの煌びやかな世界という印象があります。しかし、藤原期、院政期、源平争乱期に無念の思いを歌った人たちが多くいたことを、あらためて感じさせられました。

1.秋の田のかりほの庵のとまをあらみわがころもでは露にぬれつつ(天智天皇
2.春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香久山(持統天皇
収穫期の田を見守る農民の立場に自らを仮託した天智天皇と、香具山に干してある白装束に季節の移りを感じる持統天皇が、親子であることをとりあえず記憶しておきましょう。

99.人もをし人もうらめしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は(後鳥羽院
100.ももしきや古き軒場のしのぶにもなほあまりある昔なりけり(順徳院)
こちらも親子の天皇の歌なのですが、冒頭の2首の伸びやかさに対して、王朝文化の終焉を悲しむ最後の2首の重苦しいこと。百人一首は、後半になるほど重くなっていくのです。

68.心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな(三条院)
藤原道長の次女妍子を中宮としながら道長に疎まれていた三条院が、道長の孫にあたる後一条天皇への譲位を迫られた時の無念の歌だそうです。

77.瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ(崇徳院
保元の乱に敗れて配流先の讃岐で亡くなち、後に怨霊となったという崇徳院の伝説を思うと、深読みしてしまいますね。この歌と彼の運命とは直接の関係はないようですが。

86.嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな(西行法師)
院政時代から源平争乱にかけての世を生きた西行の涙は、誰のために流されたものなのでしょう。

87.村雨の露もまだひぬ槇の葉に霧たちのぼる秋の夕ぐれ(寂蓮法師
有名な「三夕」の1首ですが、後鳥羽上皇に才能を愛され、平治の乱の後に出家した藤原定長の歌と思うと、彼の感じた物寂しさの理由を考えてしまいます。

93.世の中は常にもがもな渚漕ぐあまの小舟の綱手かなしも(鎌倉右大臣)
鎌倉右大臣とは、歌人としても知られた鎌倉幕府3代将軍の源実朝です。28歳で暗殺される運命は知らずとも、政治の実権はすでに北条氏に移っていました。「もがもな」とは平常であってほしいという願望だそうです。

95.おほけなくうき世の民におほふかなわがたつ杣に墨染の袖(前大僧正慈円
摂関家に生まれて天台座主となり『愚管抄』を著した慈円は、後鳥羽上皇の決起を諌め、破れて流罪をされた際には涙を流したと伝えられています。このような人物が発した「憂き世の民」のひとことは重いですね。

最後に、冒頭の言葉の響きと「もうこの世にはいないでしょう」という意味の両面で、強烈な印象が残った一句を記しておきます。今でも人の心をざらつかせる、恋歌の傑作です。
56.あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢うこともがな(和泉式部

2018/2