りぼんの読書ノート

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定家明月記私抄 続編(堀田善衞)

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出世が遅れていた定家ですが、50歳を過ぎてようやく公卿に相当する正三位に昇格。もっとも歌人としての業績を認められたからではなく、姉の九条尼が当時権勢を誇っていた藤原兼子に荘園を寄贈するなどの猟官運動の成果であるので、あまり威張れたものではありません。しばらくすると内裏歌会に持参した和歌が後鳥羽上皇への不満を表しているとされて勅勘を受け、和歌の世界での公的活動を封じられてしまいます。

 

しかしそこで承久の乱が起こるのです。鎌倉に叛旗を翻した後鳥羽上皇隠岐に配流され、義兄である西園寺公経が権勢を得たことで定家は復権。しかし多くの友人・歌人が失脚し、政治経済的にはもちろん、文化の面でも京が衰退していく中で、定家は何を思ったのでしょう。ここで19歳の時に記した「紅旗征戎我が事に非ず」の文章が再び現れるのです。これは、青年時代の気概を60歳近くなって再び奮い起こしたものなのでしょうか。それともさまざまな経験を踏まえた老年期になって用いた同じ言葉には、新たな意味が付け加えられているのでしょうか。戦乱期には日記を記さない定家の心中は、推し量るしかありません。

 

ともあれ凄まじく荒廃してしまった京において、幸いにも政治的にも経済的にも安定した生活を送ることができた定家は、最晩年まで新勅撰集や小倉山百人一種などを編みながら歌人生活を全うします。創作者としてのピークは50歳前後のころだったようですが、息子を歌人として鍛えたり、歌学書を記したりするなどの生きがいもあったわけです。もっとも武士と庶民の台頭による平安文化の終焉については、強く意識していたはずであり、だからこそ歌道を家業として伝承することに努めたわけなのでしょう。

 

配流先の隠岐で19年間を過ごした後に生涯を閉じた後鳥羽院とは、ついに和解することなく終わりました。定家が単独で編纂した「新勅撰和歌集」から除外されるという出来事もあり、最後まで怨念を抱かれていたようです。

 

定家とは直接関係がありませんが、著者の鎌倉幕府初期の騒乱についての記述に触れておきます。義経追討は別としても、梶原景時一族、河野全成、比企一族、2代将軍頼家と長子一幡、畠山重忠・重保父子、千葉成胤、和田義盛一族などを殺害・滅亡させるという短期間の連続テロによって維持された政府は世界史的にも稀であり、これに匹敵するのはフランス革命時のテロル期くらいだろうというのです。またこの時期の西洋で起こったカトリック異端派や吟遊詩人や遊芸人を、法然親鸞日蓮らの新興宗教や琵琶法師らとの比較も行っています。最終的に天皇制を残した日本の独自性にも触れており、著者が東西文化を比較する視点にも見るべき点が多い作品でした。

 

2020/10