りぼんの読書ノート

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冬の旅(辻原登)

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秋葉原通り魔事件」が起きた2008年6月8日に、刑期を終えた38歳の男が滋賀刑務所から出所する場面から始まった物語は、いきなり不思議な展開を迎えます。その男「緒方隆雄」の身は、大阪駅で2つに分かれたというのです。ひとりは母親の菩提を弔うために電車に乗り続け、もうひとりは大阪駅ホームに降り立つのです。しかし、その後すぐに始まる回想場面のため、読者が感じた不思議さはしばらく放置されてしまいます。

緒方の人生は、転落の人生でした。就職先で、両性愛者の「白鳥満」との関係を疑われて退職を異議なくされたことが、躓きの始まり。新興宗教団体で職を得て、阪神淡路大震災の救援活動に赴いた際に知り合った看護師の「鳥海ゆかり」と結ばれたものの、新妻は突然失踪。自棄になって宗教団体の金を使い込んだことから、そこも追い出されてホームレスに。やがて、ホームレス仲間が起こした強盗致死事件の従犯となって、収監されていたのです。

本書を貫く「浄土思想」は、緒方の出所日に刑務所内で死亡した「久島常次」によってもたされさます。久島の説く怪しげな「悪人正機説」に惹かれた緒方は、「私は別様に行きえたのに、このようにしか生きえないのは何故であるのか」と自問しつつも、さらに転落の道を歩まざるを得ません。やがて、天王寺駅で分身と再会して合体を果たした緒方は、「幽界(かくりくに)隈野」と、「顕界(うつしくに)吉野」とを隔てる境界の場所「切目(きりめ)」へと向かうのですが・・。

ラスト1章を除いて徹底的に三人称で綴られる物語は、「緒方隆雄」の人生のみならず、「白鳥満」の異常性、「鳥海ゆかり」が嵌った陥穽、「久島常次」の不運にも、多くの筆を費やしていきます。それは、ジュリアン・ソレルや、ラスコーリニコフと対極にある、「近代理性にとって代わる何ものか」を模索する作業のようであり、その意味で、高村薫さんの冷血との共通点を思わせる作品になっているのです。緒方の起こした事件を扱う刑事は、合田雄一郎のような思いを味わうに違いありません。

2016/4