りぼんの読書ノート

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愉快なる地図(林芙美子)

林芙美子をモデルとする架空の台湾旅行小説『台湾漫遊鉄道のふたり(楊双子)』を読んで、「旅する作家」としても有名だった著者の旅行記を読んでみました。2022年に新たな文庫版として編まれた本書には、1930年から1936年にかけて、著者が27歳から33歳の時期に旅した、台湾、満州、中国、シベリア鉄道経由でのパリ、樺太を訪れた際の紀行文が収録されています。

 

林芙美子さんの旅行記に触発された紀行文や小説は、数多く出版されています。これまでにも『女三人のシベリア鉄道森まゆみ)』、『サガレン(梯久美子)』、『ナニカアル(桐野夏生)』などの本を読んでいます。最初の台湾訪問こそ新聞社の企画による女性作家たちの団体講演旅行でしたが、それ以外は自費でのひとり旅。なけなしのお金を腹に巻きつけ、3等列車で異国の庶民たちと触れ合いながらの旅など、当時としては前代未聞。「私は宿命的に放浪者である」と書いた作家が後世の著述家たちを触発したことも納得できます。

 

台湾や満州の市場や娼婦街で熱気を感じ取り、シベリア鉄道では革命後ソ連でもプロレタリアは相変わらず貧しいことを見抜き、パリでは着物に下駄という姿でフランスパンをかじりながらオペラや演奏会、美術館に出入りする。そんな著者には、同時代の大陸植民者のような統治者意識も、欧米留学生のような日の丸を背負っているとの気負いもありません。パリに出かけた1931年11月の直前には満州事変が起きて、欧州での日本の評判が悪化していることを思うと、驚くべきことです。もっとも事変による円安には閉口させられたようですが。

 

森まゆみさんは、やはりシベリア鉄道を踏破した与謝野晶子や中條百合子と比較して「労働者階級育ちだった芙美子が、ソ連の貧しさに加えて社会主義の欺瞞を見抜き」ながらの「明るくてしたたかな旅が一番興味深い」と書いています。その一方で梯久美子さんは、樺太の白浦駅で芙美子に向かって「パンにぐうぬう」と呼び売りをしていたロシア人の素性をつきとめて「芙美子に教えてやりたい気持ちになった」と記しています。桐野夏生さんは芙美子に不倫旅行をさせてしまいましたし、台湾人作家の楊双子さんに至っては同性愛に目覚めさせてしまいました。それらの作品の原点が、本書の紀行文なのです。

 

2024/4