『武士の家計簿』の著者が、元禄時代の大名243人の人物評価を記した『土芥寇讎記』のエッセンスを紹介した作品です。『土芥寇讎記』とは、幕府隠密による各藩大名たちの素行調査記録とも言われていますが、実態は謎だとのこと。
「徳川光圀」
水戸黄門のモデルとなった「名君」ですが、儒学を奨励する一方で、悪所通いもしていたようです。そんな形で庶民と交わったことが、「諸国漫遊記」伝説のはじまりだったというから、わからないもの。ついでながら、冲方丁の『光圀伝』は、本書を参考にしているようにも思えます。
水戸黄門のモデルとなった「名君」ですが、儒学を奨励する一方で、悪所通いもしていたようです。そんな形で庶民と交わったことが、「諸国漫遊記」伝説のはじまりだったというから、わからないもの。ついでながら、冲方丁の『光圀伝』は、本書を参考にしているようにも思えます。
「浅野内匠頭と大石内蔵助」
「刃傷事件」と「討ち入り」がなかったら歴史に埋もれていたはずの、小藩の小人物。浅野内匠頭は、無類の女好きで、引き籠りで視野が狭く、知恵がなく短慮な人物であり、「この家は危ない」と評価されていたとのこと。大石内蔵助も、男色にもふけっていた不良中年だったそうです。
「刃傷事件」と「討ち入り」がなかったら歴史に埋もれていたはずの、小藩の小人物。浅野内匠頭は、無類の女好きで、引き籠りで視野が狭く、知恵がなく短慮な人物であり、「この家は危ない」と評価されていたとのこと。大石内蔵助も、男色にもふけっていた不良中年だったそうです。
「池田綱政」
著者の出身地である岡山藩の2代目藩主は、リアル「バカ殿」だったそうです。源氏物語の世界にあこがれ、昼は蹴鞠、夜は酒宴、さらには70人も子を産ませた絶倫男。著者は、戦国期の大名が生き残っていた江戸初期の50年と、その後の200年とでは、全然違う時代であったと書いていますが、それを代表する人物ですね。
著者の出身地である岡山藩の2代目藩主は、リアル「バカ殿」だったそうです。源氏物語の世界にあこがれ、昼は蹴鞠、夜は酒宴、さらには70人も子を産ませた絶倫男。著者は、戦国期の大名が生き残っていた江戸初期の50年と、その後の200年とでは、全然違う時代であったと書いていますが、それを代表する人物ですね。
「前田利常」
徳川家を倒しえるほどの実力を持っていた前田家の3代目は、加賀100万石をもって割拠するとの家訓を守りつつ、幕府と緊張感のある対峙を続けた、複雑な性格の殿様だったようです。「警戒もされず、侮られず」というバランスのとり方は、さぞ難しかったことでしょう。著者は、「中世をぶち壊して近世を開いた狂気の精神」は、信長に始まって利常で終わったとまで評価しています。
徳川家を倒しえるほどの実力を持っていた前田家の3代目は、加賀100万石をもって割拠するとの家訓を守りつつ、幕府と緊張感のある対峙を続けた、複雑な性格の殿様だったようです。「警戒もされず、侮られず」というバランスのとり方は、さぞ難しかったことでしょう。著者は、「中世をぶち壊して近世を開いた狂気の精神」は、信長に始まって利常で終わったとまで評価しています。
「内藤家長」
伊達藩の手前の磐城平藩から、島津藩の手前の延岡藩に転封されるという、「捨て駒」となるべき場所に封じられ続けた譜代の名家の運命は、初代・家長によって定まったとのこと。関ヶ原の前哨戦で、伏見城で捨て駒となったことが、幕末まで尾を引いたのですね。
伊達藩の手前の磐城平藩から、島津藩の手前の延岡藩に転封されるという、「捨て駒」となるべき場所に封じられ続けた譜代の名家の運命は、初代・家長によって定まったとのこと。関ヶ原の前哨戦で、伏見城で捨て駒となったことが、幕末まで尾を引いたのですね。
他に、家康に凄まじいまでの忠義を尽くした「本多作左衛門」のエピソードが紹介されています。
2016/3