りぼんの読書ノート

Yahooブログから移行してきた読書ノートです

殿様の通信簿(磯田道史)

諸田玲子さんの『ちよぼ』を読んだついでに、彼女の息子である加賀藩第3代藩主である前田利常を多く取り上げていた本書を再読してみました。全9章のうち、前田利家に1章、前田利常に3章も割いているのです。本書の元になった資料は、元禄期に書かれた『土芥寇讎記』という書物で、公儀隠密が探索してきた諸大名の内情を幕府高官が編集したものと言われています。

 

徳川光圀

水戸黄門のモデルとなった名君ですが、深いトラウマを抱えた人物であったようで、悪所通いもしていたとのこと。もっとも当時の遊里は文化サロンの一面もあったようで、庶民との交わりの深さが「諸国漫遊記」伝説を生んだのでしょう。殿様が「お忍び」ができた最後の時代のことでした。

 

浅野内匠頭大石内蔵助

「刃傷事件」と「討ち入り」がなかったら歴史に埋もれていたはずの、小藩の小人物。浅野内匠頭は、無類の女好きで、引き籠りで視野が狭く、知恵がなく短慮な人物であり、「この家は危ない」と評価されていたとのこと。大石内蔵助も、男色にもふけっていた不良中年だったそうです。

 

「池田綱政」

著者の出身地である岡山藩の2代目藩主は、リアル「バカ殿」だったそうです。源氏物語の世界にあこがれ、昼は蹴鞠、夜は酒宴、さらには70人も子を産ませた絶倫男。著者は、戦国期の大名が生き残っていた江戸初期の50年とその後の200年は全然違う時代であり、岡山藩では初代光正と2代綱政の間に時代の断絶があったと記しています。

 

前田利家

秀吉の盟友として家康を牽制する役割を担った利家は、身長が180cmもある大男だったとのこと。当時の平均である家康が160cm、秀吉に至っては150cmもなかった時代ですから、異様な巨人だったわけです。彼が神と崇めていた信長のエピソードを生涯語り続けたことで、「信長伝説」が後世に伝わったようです。

 

「前田利常1~3」

妾腹であり後継候補にもあがっていなかった利常が加賀藩の第3代藩主となれたのは、異母兄の第2代藩主・利長が「人目利き」であったことによるようです。徳川家を倒しえるほどの実力を持っていた前田家の3代目は、加賀100万石をもって割拠するとの家訓を守りつつ、幕府と緊張感のある対峙を続けるという複雑な役割を担う必要があったのです、著者は、「中世をぶち壊して近世を開いた狂気の精神」は、信長に始まって利常で終わったとまで評価しています。生母ちよぼの境遇や身分の低さ、正妻まつとの険悪な関係、利常のただ一度の実父・利家との対面など、『ちよぼ』に描かれたエピソードも順を追って確認できました。

 

内藤家長

伊達藩の手前の磐城平藩から、島津藩の手前の延岡藩に転封されるという、「捨て駒」となるべき場所に封じられ続けた譜代の名家の運命は、初代・家長によって定まったとのこと。関ヶ原の前哨戦で、伏見城捨て駒となったことが、幕末まで尾を引いたのですね。

 

「本多作左衛門」

初めから家康に仕えた14歳年長の忠義者は「鬼作左」と恐れられる人物でありながら、戦国大名の「暴力と恐怖の支配」に代わる、「天下を治める理念」を家康に教えたとされています。秀吉に警戒されて閉居させられた作左衛門の晩年は不遇でしたが、主君への恨みは一言も言わなかったとのこと。

 

著者は、戦国末期から元禄時代にかけての半世紀強の間に、世代間の意識の断絶が起こったと述べています。そして戦国末期、明治維新、第2次世界大戦の敗戦という激動期もそうであったように、現代もまた世代間格差が広がりつつある時代ではないかとも思っているようです。心配しても仕方のないことであり、後世に委ねるしかないわけですが。

 

2023/5再読