りぼんの読書ノート

Yahooブログから移行してきた読書ノートです

遠きにありて、ウルは遅れるだろう(ペ・スア)

「存在を規定する記憶をすべて失い、“ウル”と名づけられた女性」というのは、いったい何者なのでしょう。そして同じ時間に別の場所で進行している3つのウルの物語とは、いったいどういうことなのでしょう。ヒントは、その時間が2019年1月23日の翌日であると特定できることにありそうです。その日に、著者が大きく影響を受けた前衛映画監督のジョナス・メカスが亡くなっているのです。

 

はじめの物語のウルは、ホテルの1室で午後4時に目覚め、やはり記憶を失っている黒い服を着た同行者とともに巫女に逢いに行きます。彼女は巫女から自分の名前と「霊魂を送る儀式」が必要だと教えられますが、やがて同行者は海に消えてしまいます。

 

2つめの物語のウルが思い出した記憶の断片は、遠い昔の母親の死、7歳という幼さで始まった初潮の衝撃、「ハメルンの笛吹き男」にインスパイアされたかのような劇と踊り、演劇のゲリラ公演の相手役だった不思議な女性との会話にすぎません。しかし謎めいた客は彼女に、ある文章を書くことを決意させたのでしょう。そして3つめの物語のウルは、夢について語り始めます。やがて彼女は、自分が「はじまりの女性」であり、「見る目」であることを自覚するのです。

 

自由な形式で書かれながらも難解な作品です。「混沌の中から意識の底にある感覚を浮上させ、自分が何者であるのかを夢幻的に探っていく小説」と解説にありましたが、ウルが実際に何者であるのかは最後まで明らかにされません。強いて言えばこの状況は、「ストーリーもセリフもキャラクターも決まっていない状況で始まる舞台劇の開始時点」に近いのかもしれません。登場人物たちは対話の中で、お互いを規定し合い、自分が何者であるのかを探っていくわけです。本書はジョージ・メカスに捧げた追悼の書なのでしょうから。

 

2023/5