りぼんの読書ノート

Yahooブログから移行してきた読書ノートです

新三河物語(宮城谷昌光)

イメージ 1

徳川三代将軍・家光の時代に、魚屋・一心太助を従えて「天下のご意見番」を任じたという大久保彦左衛門の逸話は後世の講談や講釈の中での創作ですが、彼の遺した『三河物語』は家康と家臣団の苦難の時期の戦闘記録であり、太平の世に不遇となった武功派の武士たちの支持を集めるようになったことは想像に難くありません。

桶狭間の戦いがあった年に、徳川家最古参の家臣団であった大久保一族に生まれた彦左衛門は、今川家の支配を脱して岡崎に帰還した家康を支えた、一族の長兄である忠世と次兄の忠佐らの活躍から著を進めます。

斜陽の今川家から旧領を回復する時期に起きたのが、主君と家臣、友人、親子までが敵対して死闘を繰り広げることとなった三河一向一揆です。徳川家にとって最も厳しい時期でしたが、一揆を上手に収めたことが家臣団の紐帯を強めたようです。

織田信長との同盟のもと三河から遠江駿河と東進する徳川家が次に激突したのは、最強の敵の武田信玄。織田包囲網によって苦戦する信長からの支援を得られぬまま、激戦の末に二俣城は落城。さらに浜松から三河に向かう武田軍の前に、徳川・織田連合軍が大惨敗を喫することになった「三方ヶ原の戦い」は有名です。この時の信玄の発病・死去がなければ、後の徳川家はあったかどうか・・。

やがて元服を済ませた平助(彦左衛門)も戦場に立つことになります。大久保一族だけでも20名を超える兄弟・従兄弟がいて、とても覚えきれないほどなのですが、一族の有力者や子弟が次々と命を落としていく苦戦・激戦が続く中で、「忠義」とは何なのか、平助ならずとも考えざるをえないでしょう。

長篠の合戦、武田家滅亡、本能寺の変小牧・長久手の戦い、小田原攻め、関東移封と続き、大久保忠世・忠隣父子は小田原6万5千石、忠佐は沼津2万石の大名となり、末弟の平助も徳川直参として2千石を拝領するのですが、家康の謀臣・本多正信と対立して忠隣は改易に。後に忠隣の孫の忠朝の時代に大久保家は小田原城主に返り咲き、明治維新まで大名の地位を維持するのですが、『三河物語』は「大久保家の不遇の時代」に執筆されているんですね。

中国の春秋・戦国時代を題材にした小説を多く書いている宮城谷さんですが、最近は日本の戦国時代の小説も書いているようです。司馬遼太郎さんのポジション狙いでしょうか? この本は大久保平助(彦左衛門)の立場が明快でしたので、それに乗って書いたようですが、独自の史観を打ち出せるかどうかが、大家への道を歩むかどうかの分かれ目のように思えます。

2011/4