『万延元年のフットボール』に続いて、大江さん中期の名作を再読しました。
もと大物政治家秘書の大木勇魚が、知恵遅れの幼児ジンとともに核シェルターに籠って「樹木と鯨の魂」と交感する生活を送っているなか、「自由航海団」を名乗る反社会的な青年集団と出会い、ともに自壊していく物語。1973年に出版された作品ですから、前年の「リンチ殺人事件」と「あさま山荘事件」を意識しているのは当然でしょう。昨今の、精神的救済をテーマとする作品が「オウム」を避けて通れないのと同じです。
とはいえ、機動隊に包囲されて篭城するというカタストロフィー的な結末は一緒でも、「自由航海団」は「連合赤軍」とは決定的に異なる集団です。彼らが反社会的性格を強めていく過程は、政治的というよりも情緒的であり、それは、勇魚やジンのような人物の共感を得ることとは無縁ではありません。
喬木、ボオイ、伊奈子、縮む男、赤面、多麻吉・・という「自由航海団」のメンバーは、当時の著者が信奉していたであろうサルトルの実存主義の担い手であるかのような存在なんですね。「投企」というむき出しの表現すら、小説中に登場していますし。
では本書は「連合赤軍」に対するアンチテーゼとして書かれたものなのでしょうか。その点に関しては、そうではないように思えます。著者がシンパシーを感じることができる対象として、「こういう存在であって欲しかった架空の連合赤軍」を創出したと思えるのですが、いかがでしょう。
本書の難解さは、自分が決して「樹木や鯨の代理人」などでなく、むしろ樹木や鯨を殺戮する側の人間のひとりにすぎないことを絶望的に悟りながら、樹木と鯨の魂に向けて「スベテヨシ!」と最後の挨拶をおくる、勇魚の言動に凝縮されているように思えます。
「絶望から発せられた自棄的な叫び」ということはありえません。それは、「樹木を伐り尽くし、鯨を屠りつくす」凶暴な人類の滅亡を嘉する言葉なのか。自らの凶暴な行動が人類の存在を悪とする己の思想を証明することを、喜ぶ言葉なのか。自らの死が、己の過去の罪をあがなうことを「よし」としているのか。それとも、野鳥の声を聞き分けるジンたち、次の世代の人類が、樹木と鯨にとってもユートピアである新しい世界を築くことを確信しての「希望の言葉」なのでしょうか・・。
2010/2