りぼんの読書ノート

Yahooブログから移行してきた読書ノートです

太陽を曳く馬(高村薫)

イメージ 1

『晴子情歌』、『新リア王』に続く、福澤一族3部作の完結編に登場してきたのは、『マークスの山』、『照柿』、『レディ・ジョーカー』の主人公であった合田雄一郎。まさに高村文学の総決算といえる本書は、21世紀日本が抱える心の闇を抉り出す重厚な作品でした。

舞台は2001年秋の東京。9.11テロで、別れた妻を亡くしたばかりの合田が担当することになった事件は、福澤家と深い付き合いのある赤坂の永刧寺から道路に飛び出した僧が、車に牽かれて死亡した事故で、寺の保護責任を問うというもの。

その僧は癲癇を煩いオウムとも関係していたのですが、彼を永劫寺に受け入れたのは当時永劫寺の副住職であった福澤彰之でした。青梅の庵に彰之を尋ねていった合田は、4年前に殺人事件を起こして死刑判決を受けていた彰之の息子・秋道の死刑が、その前日に執行されたことを知らされます。そしてその事件も合田が担当していたのです。

読者は驚愕します。『新リア王』のラストで餓死したと伝えられた杉田初江が、彰之との間に生していた秋道が、こんな運命をたどっていたというのですから。青森の寒村で庵を結んでいた彰之が大寺院の副住職になっていたというのも驚きですが、日本の戦後政治を代表していたかのような福澤一族の力を思えば、意外ではありません。

本書の前半は、幼い頃から他者と交わらず、絵を描くことのみに関心を抱いた秋道が、同居していた妊娠中の女性と隣家の大学生を惨殺した過去の事件の回想に費やされます。当時の東京ポップシーンの行き詰まり状況や、身体的経験の重み、認識論の問題が、今回の事件と直結していることを、読者はやがて知ることになります。

永劫寺の僧侶たちと彰之との間でかつて繰り広げられた、仏教やオウムに関する論戦を合田が聴取する後半は、『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の21世紀日本版。そもそも宗教とは何なのか。個人レベルで宗教を定義しなおすとはどういうことなのか。個人の発心が死んだあとに残るものは何なのか。過去の大哲学者のように「語りえないことについては沈黙せねばならない」のか?

凄いです。知的興奮の嵐です。しかし、ここで語られた膨大な言葉が寒々しいのも事実。近代理性精神を信奉している著者が、ここまで近代理性精神が崩壊していることを訴えなくてはならないのか。また、人間として人間の言葉でオウムを否定する彰之は、ついに共有する言葉を持ち得ることができなかった秋道のことを理解できたのか?

まさにそのために、彰之・秋道親子の間の世代である合田が存在するのでしょう。しかし、「自由な意思、自由な死、おまえはなぜ沈黙しない」との合田の最後の言葉や、「もう何を書いてよいのか分からないので笑うことにします」という、刑死を前にした息子に宛てて彰之が書いた手紙の最後の一文を見る限り、著者はまだ近代理性にとって代わるなにものかを見出してはいないように思えてなりません。

ただし、善悪二元論ではない唯一の世界宗教である仏教を作品の中核に据えたことが、今後の展開についての何らかのヒントが、著者の中で既に形をとりつつあるということなのかもしれません。いや、そうあって欲しいものです。

2009/12