りぼんの読書ノート

Yahooブログから移行してきた読書ノートです

冷血 下巻(高村薫)

イメージ 1

クリスマス前夜に起きた「一家四人殺害事件」の犯人は、上巻の時点ですでに両名とも逮捕されています。下巻の第3章「個々の生、または死」は、犯人たちと対峙する合田刑事の苦悩に費やされます。殺人犯たちは、現代の司法制度が求める「動機」と「殺意の有無」を、明晰な言葉で表すことができないのです。出てくるのは「何となく」「勢いで」「何も考えずに」という曖昧な説明ばかり。

しかしどのようなケースにおいても、殺人の動機などというものが言葉にできるものなのでしょうか。「人間は言葉でいろんなことを説明できると勘違いしていると思うんです。人間や物事はもっと複雑で、説明できない部分の方が多いと私は思う」と語る著者は、そして合田は、それでも言葉を費やしていかねばなりません。

直接言葉とはならない大きな空洞を埋めるかのように、自動車や、スロットマシンや、歯科医学や、映画や読書の嗜好など、生の断片としてのデティルが語られていきます。歯痛に悩む戸田が「パリ、テキサス」のナスターシャ・キンスキーを下品に陥る寸前に留まった美しさと評価し、双極性障害を持つ井上が『北利根図史』の草花に目をとめる人物であることは、決して不自然ではありません。そしてこの2人が非情で不条理な殺人犯であるということも事実なのです。

人は、このような荒野を前にして立ちすくむしかないのでしょうか。著者は、前書太陽を曳く馬での、「自由な意思、自由な死、おまえはなぜ沈黙しない」との合田の最後の言葉や、「もう何を書いてよいのか分からないので笑うことにします」という、刑死を前にした息子に宛てて彰之が書いた手紙の一文から、一歩も前に進んではいないのでしょうか。

いや、そうではないのでしょう。「近代理性にとって代わる何ものか」とは、「人物たちの精神と肉体のなかに刻み込まれた何ものか」ではないかという答えが、著者の中で形になりつつあるように思えます。「人の生も死も絶対的なものではない」けれど、「あらゆる理解を拒絶して、なおそこに在る圧倒的な個」というものを認めることが、全ての出発点なのかもしれません。

2013/5