1978年に29歳となった「僕」が、1970年夏の21歳の時に起きた物語との形式を取っていますが、なんとまぁ計算されつくした小説なのでしょう。僕と、鼠と、ジェイと、小指のない女の子。架空の小説家デレク・ハートフィールドと、ラジオのDJ。僕が寝た3人の女の子と、高校時代のクラスメートの女の子。3人の叔父と、病気の女の子と、その姉。
至るところで「挫折」という概念が浮かび上がってくる。そしてその都度、読者は冒頭の文章を思い返して「挫折」と「絶望」の間に横たわる果てしない距離を思い浮かべざるを得ないようになっているかのようです。「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」
ところで、作中にあったある文章が気になりました。「もし何かを表現できないなら、それは存在しないのも同じだ」。最新作『1Q84』の中にあった文章と比較してみましょう。「説明しなければ理解できないのなら、説明しても理解できない」
この2つの文章の間に矛盾がないのであれば、村上春樹さんが30年以上かけて到達した地点は、やはり荒涼とした無理解の荒野なのか。それとも読者への信頼なのか。その両方であるように思えてしかたありません。
2009/9再読