りぼんの読書ノート

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フラニーとズーイ(J.D.サリンジャー)

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1951年にキャッチャー・イン・ザ・ライで華々しくデビューした著者が、1955~57年にかけて「ニューヨーカー」に発表した小説です。

前半の「フラニー」は、文学的でシンプルです。名門の大学に通うグラス家の美しい末娘フラニーが、エゴと欺瞞に満ちている世界に絶望し、怪しげな宗教書に魂の救済を求めるようになるという物語。俗物的な恋人レーンの視点を中心に据えて、久しぶりに会ったフラニーが、独善的な攻撃と自虐的な絶望の間を揺れ動く様子が描かれます。彼女の悩みは、半世紀以上前の小説とは思えないほど「現代的」なのです。

ところが後半の「ズーイ」になると、一転して宗教色を帯びてきます。兄のズーイが、崩壊してしまった妹を救い出そうと語りまくるのですが、兄もまた妹と同じような悩みを抱えていたのですから。2人はともに、年の離れた長兄シーモアと次兄バディが信奉していた宗教哲学や東洋思想の影響を受けていたのです。このあたりは「1950年代」という時代性を感じてしまいます。要するに、テーマは普遍的なのですが、処方が古くさいのです。

結局は「日常性の尊重」というあたりで、理想と現実の折り合いがつけられるようなのですが、村上春樹さんの翻訳で本書を再読してみると、ズーイの会話の「テンポの良さ」と「回転の速さ」に感心させられてしまいました。ところどころに「やれやれ」などの言葉を入れてみると(入ってませんが)、まるでひところの村上春樹小説の登場人物のように感じられるほど。

村上春樹さんが「あとがき的」に書いているエッセイで、「こんなに面白い話だったんだ!」と自身の感想を述べていますが、同感です。もっとも、そう思ったのは、村上さんの新訳だったからかもしれません。

2014/12再読