りぼんの読書ノート

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三四郎(夏目漱石)

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夏目漱石の『三四郎』というと、熊本から上京して学生生活をはじめた純情青年の三四郎が、広い世界に出て、学問に恋に成長していく「教養小説」との印象が強く、今でも人気の高い作品です。私もかつて、そんな読み方をした覚えがあります。

ところが水村美苗さんの日本語が亡びるときによるとこの本は、「国語としての日本語」を作り上げようとしていた先人たちの、欧米文化の「翻訳」にとどまっていた帝国大学文学部に対する批判を含んでいるというので、驚きました。その視点から再読してみた次第です。

確かにそれはありました。三四郎が帝大の授業で学ぶことは、田舎の青年を驚かせるものであっても内容は空疎です。古今東西の知識に通じている「偉大なる暗闇」こと広田先生が帝大教授にはなろうとせず、ただ立ちすくんでいるかに見えるのは、文化的閉塞感の現れのようにも思えます。

一方、寺田虎彦がモデルという野々宮の「物理学」における研究が、世界的に評価されているということは、小説の中での扱いこそ小さいものの、「文学」が置かれた状況とは対照的ですね。優れた小説というものは、本題とは異なる事柄においても時代を写し取っているのでしょう。

でもこの本の主題はやはり、三四郎という青年の自我の形成史ですね。平塚雷鳥をモデルにしたという美禰子が、自分の青春を画の中に封じ込めて「立派な人」と結婚していくという「青春の蹉跌」の物語との見方もあるようですが、副次的なものでしょう。ただ、美禰子を主人公としてこの物語を再構築してみると結構おもしろそうな気がします。

彼女が愛していたのは、三四郎なのか、野々村なのか。やがて自立していくであろう男性たちとは異なり、「結婚」にしか未来を見出すことができない女性の境遇や、男性たちのサークルにとって「ファム・ファタール(宿命の女)」としてしか認めてもらえないことを、彼女がどう感じていたのか。美禰子こそが「ストレイ・シープ」だったように思えてなりません。

2009/4