19世紀末のウィーンを震撼させた、ハプスブルグ家の皇太子ルドルフの心中事件。果たしてそれは、どのような時代背景のもとで、どのような事情から起きたのでしょうか。本書は、事件に至るまでの10ヶ月間のウィーンを描いて、それをつきとめようとします。
1888年。ウィーンは揺れていました。一方には、ハプスブルグの帝国からの独立を要求する、ハンガリーやスラブ系民族。もう一方には「大ドイツ主義」のもとでバイエルンからオーストリアを糾合しようとする新興著しいプロイセン。
そんな中で、クリムトは新しく完成したブルク劇場の天井画の出来栄えに不満を抱き、ブルックナーは音楽界の長老ブラームスから無視されて怒り、フロイトは精神科医として新たな理論を構築しようとして伝統的な精神病理学会からは締め出されていました。いわゆる「世紀末」が始まっていたのです。
30歳を迎えた皇太子ルドルフの、妻ステファニーとの関係は冷え切っていました。一方では、彼に何の権限も与えようとしない父のフランツ・ヨーゼフ皇帝への不満も増大。保守的でプロイセンに迎合するかのような父帝への反発からか、早くから自由主義者として知られてはいたものの、政治的な実権はなく、フランスやロシアとの同盟を勝手に構想して皇帝から激怒され、絶望感を募らせる日々。そして起こった心中事件。
心中の相手は、必ずしも、16歳のマリー・ヴェッツェラでなくても良かったようですね。悪女と言われるマリーですが、皇太子の絶望につき合わされた彼女のほうこそ気の毒です。ルドルフの遺書の一部は、ハプスブルグ家から「門外不出」といわれているうちに迷宮の奥深くに埋もれてしまったようで、事件の真相は未だに謎と言われていますが、少なくとも『うたかたの恋(原題:マイヤーリンク)』で描かれたような悲恋物語ではなかったことは間違いなさそうです。
皇太子心中事件の起きた1889年を象徴する出来事がもうひとつ起きていました。クララという女性が、アドルフという息子を産んだのです。税関吏である父アロイスは、ヒードラーという姓を後にドイツ風に変えることになります。
2008/4