りぼんの読書ノート

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博士と狂人(サイモン・ウィンチェスター)

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副題に「世界最高の辞書OEDの誕生秘話」とあるように、41万語以上の収録語数を誇る世界最大・最高の辞書『オックスフォード英語大辞典』が19世紀末に作り出されるまでのノンフィクションです。

あらためて気付かされるのは、普段、当たり前に使っている辞書がなかったらどんなに不便か、という事実です。辞書がなかった時代の作家たちは、不安な思いで様々な用語を綴っていたのでしょう。たとえば、シェークスピアですら、かなりの誤った用例やスペルを使ってしまっていたとのこと。次いで驚かされるのは、「最初に」辞書を作成するために費やされた膨大な作業。12世紀以降の、ほとんど全ての本を読破して用例や変化をたどっていくという気の遠くなるような作業が、なんと70年間も続けられた成果がOEDなのです。

もちろん、個人レベルでできることではありません。中心にいたのは、貧困の中、独学で言語学の第一人者となったマレー博士ですが、彼とて何代にも渡って作業を積みかさねた先人たちの成果に基づいて、辞書を完成に導くことができたのです。

それだけではありません。マレー博士が取った手法は、広く世間に協力者を求めて彼らに本を読んでもらい、多くの用例を集めることでした。「辞書編纂家は歴史家であって批評家ではない」との態度は、まるで現代のWEBのようです。その中で、コンスタントに手紙で用例を送ってきて、辞書の完成に大きな役割を果たした人物が、本書の二人目の主人公であるマイナー博士。

本書の冒頭で、すでに10年以上も手紙だけで交流していた2人が、はじめて出会う場面が語られます。豪壮かつ頑丈な建物の中でマレー博士を迎えた人物はマイナー博士本人ではなく、彼は驚くべきことを言うのです。「ここは精神病院であり、マイナー博士は、ここに入院している患者なのです」。妄想に病み、殺人まで犯してしまったマイナー博士は、精神病院に収容されて一歩も施設外へ出ることができなかった患者でありながら、社会貢献を通じて自己実現をはかるために、有り余る時間を利用して万巻の書を読破し、用例を手紙で送り続けていたのでした。

本書は、2人の人生を冷静に追うことによって、OED編纂事業の一端を語ってくれるのですが、実際には、数多くの有名無名の人々が人生を賭けて作り上げたものであることも、きちんと示唆されています。辞書編纂というものは、ネットのない時代のWEBだったのですね。日本語の辞書編纂がどのように行われたのかも気になります。

2007/8 Veneziaにて