りぼんの読書ノート

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呉漢(宮城谷昌光)

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6【呉漢(宮城谷昌光)】
王莽の簒奪によって前漢が紀元8年に滅亡した後、光武帝・劉秀が後漢皇帝として即位したのが紀元25年のこと。しかし当初は各地に自称皇帝が乱立しており、中国統一が実現したのは紀元36年です。実に30年もの間戦国時代が続いていたわけで、秦滅亡後に項羽と劉邦が天下を争った5年間や、後漢滅亡後に魏・呉・蜀の三国が成立するまでの10年間と比べても、長い期間です。

それなのに光武帝・劉秀の中国統一の物語は、それほど有名ではありません。その一つの理由は「雲台二十八将」と呼ばれる武将たちが地味だったことによるのでしょう。劉邦傘下の蕭何・張良・曹参・盧綰・樊噲・韓信ら、劉備傘下の諸葛孔明関羽張飛・超雲らとの比較において、彼らはあまりにも無名なのです。そんな中で劉秀陣営で最大の知将とされ、国防長官にあたる大司馬の地位に登り詰めた人物が呉漢です。

現在の河南省南陽市付近の貧農の家に生まれた呉漢は、やがて地元警察の役割を果たす亭長となるも、食客としていた祇登の敵討ちに巻き込まれて漁陽から幽州へと逃亡。しばらくは地元の豪族・豪傑たちと誼を結んでいたというから、劉邦の若い頃を思わる侠客的な人物だったのでしょうか。その頃に関係を持った況巴、角斗、魏祥、左頭、樊回、郵解、郵周らが、後の幕僚となっていくのですから、縁というものは不思議です。

やがて王莽の新朝が滅ぶ頃には、有力者の彭伯通の引きで安楽県令となっていましたが、各地に割拠した群雄の中から劉秀を選んで、いち早く合流。その後、劉秀のもとで幾多の戦功を立てて大司馬に任命され、最終的には蜀に割拠していた公孫述を討ち、後漢による統一を完成させる役割を担うことになります。

著者は、名家の生まれでも常勝将軍でもなかった呉漢が、劉秀の信頼を得続けて決定的な役割を担い、生涯大司馬の地位にとどまった不思議さを描こうとしたと述べています。若い頃に貧農であったことが不合理を受け入れる心力を鍛えたことや、私淑した祇登の助言を入れて時代が動く理(ことわり)を見極めることができたことが、著者があげる理由です。ただし全巻を読んだ印象は、この時代の真の傑物は光武帝・劉秀ただひとりであり、呉漢は彼に用いられて光り輝いた人物のように思えます。

2018/9