りぼんの読書ノート

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無意味の祝祭(ミラン・クンデラ)

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存在の耐えられない軽さ』で「たった1回限りの人生の限りない軽さは本当に耐え難いのだろうか」と問いかけた著者は、「無意味」こそが人生の本質であるという地点にたどりついたかのようです。それは、「不滅なるものは通俗化を免れない」という感覚が帰結するところのようにも思えます。

リュクサンブール公園内の美術館で開かれているシャガール展を観たいものの、長蛇の行列に嫌気がさしている男。癌の疑いが晴れた日に、自分は癌であると無意味な嘘をついてしまう男。女性の魅力は太腿や尻や胸だけではなく、臍に潜んでいるのではないかと思う男。フランス語を理解できない外国人の道化を装い続ける男・・。

どこまでが意味のあることなのでしょう。全ては無意味なのでしょうか。たとえば「女性の魅力は臍にある」という男は、母親から望まれずに生まれた子供であったことには、意味はないのでしょうか。臍が象徴するものは、母親と胎児の結びつきなのですから。しかし著者は、このような物語にも「重さ」を与えません。むしろ、息子が「創作」する母親の物語は、「冗談」のようです。

フルシチョフの回想録において、「24羽のヤマウズラを撃ち落とした話」を語るスターリンのエピソードは、象徴的です。権力者の嘘を指摘できず、冗談を理解できない体制のもとでは、軽薄さや無意味な言動は存在しにくいようです。そのような体制は、知性を奪い取っていくのです。

85歳となったクンデラが「自分の作品の総決算」として執筆したと思われる本書が、複数の登場人物たちの無意味な会話からなる作品となったことは、象徴的です。著者は、文学を窒息させる独裁制と親和しやすい「1人の視点」や「重厚なストーリー」を排除したということなのでしょう。

2015/7