りぼんの読書ノート

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不滅(ミラン・クンデラ)

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映画化されて著者の名を世界的に高めた存在の耐えられない軽さに続く長編ですが、完成度としてはこちらのほうが上でしょう。実際、著者らしき登場人物に「本書こそがそのタイトルにふさわしい」と言わせているのですから。

物語は、プールで目にした素敵な中年女性の仕草に永遠性を感じ取った作者が、彼女にアニェスという名前を与えるところから始まります。本書は、アニェスとポールの夫婦が、姉と正反対の気質を持つ妹ローラの存在によって崩壊していく過程を描いていくなかで「不滅なるもの」の正体を追い求めていく作品なのですが、その構成は複雑です。

芸術家にとって「不滅なるもの」の創造とは究極の目標かもしれません。しかし、不滅を保つということは通俗化を免れないのでしょうか。著者は、ゲーテや、ベートーヴェンや、ヘミングンウェイや、マルクスを例に挙げて論考を進めていきます。

彼を崇拝していた少女ベッティーナの遺した「往復書簡」によって「造型」されてしまったゲーテや、帽子を脱がずに貴族の一団をやり挿話で傲慢さの印象を後世に残したベートーヴェンや、作品よりもライフスタイルのほうが論じられるヘミングウェイや、いくつかの貧弱なスローガンだけが強調されるマルクスにとって、その「不滅性」は喜ばしいものなのでしょうか。

また現代においては、著者が「イマゴロジー」と名づけたメディアや宣伝媒体の形でしか「不滅性」は期待できないものなのでしょうか。ローラの恋人であったTV局員のベルナールが、一連の大衆迎合的なインタビューの結果「完全ロバ」と名づけられたエピソードは象徴的です。いまや地球を覆いつくすネット化の進展は、その傾向を極限まで発展させたかのよう。

では、アニェスとポールとローラにとっての不滅性とは何だったのでしょう。それはどうやら、彼らの間に起こった悲喜劇ですら決して独創的なものではなく、過去に幾多の人々によって演じられたドラマの再現でしかなかったということのように思えます。「仕草の数より人間の数のほうが多い以上、独創的な仕草などありえない」という冒頭のつぶやきが、本書のテーマを見事に言い表しているのでしょうから。

本書は、前書『存在の耐えられない軽さ』における、「たった1回限りの人生の限りない軽さは本当に耐え難いのだろうか」との問いに対する、もうひとつの回答なんですね。チェコ動乱の中で歴史的変動に翻弄された恋人たちの物語も、平和なパリを舞台にした三角関係のドラマも、同等の軽さしか持ち合わせていないのかもしれません。でも、ローラやベッティーナのような攻撃的キャラの女性とはめぐり合いたくないものです。

2013/2再読