りぼんの読書ノート

Yahooブログから移行してきた読書ノートです

村上春樹 雑文集

イメージ 1

インタビュー、受賞の挨拶、海外版への序文、音楽論、書評、人物論、結婚式の祝電・・。著者が「雑文」と名づけた文集には、デビュー作「風の歌を聴け」受賞の言葉から、エルサレム賞スピーチ「壁と卵」までの未収録・未発表の文章が69編、ぎっしりと詰まっています。

本人のセレクトによる文章は、どれも味わい深いものなのですが、とても全ては記せません。とりわけ印象に残ったものだけ紹介しておきましょう。どれも「小説」とか「創作」に対する著者の思いが言葉になった個所のように思えます。
良き物語を創るために小説化がなすべきことは、ごく簡単に言ってしまえば、結論を用意することではなく、仮説をただ丹念に積み重ねて行くことだ、我々はそれらの仮説を、まるで眠っている猫を手に取るときのように、そっと持ちあげて運び、物語というささやかな広場の真ん中に、ひとつまたひとつと積み上げていく。フィクションという装置に精通することによってのみ、我々は猫たちをぐっすりと深く眠らせておくことができる。(自己とは何か-あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)
もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、他の誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が決定することです。もし小説化がいかなる理由があれ、壁の側に立って作品を書いたとしたら、いったいその作家にどれほどの値打ちがあるでしょう?(「壁と卵」-エルサレム賞・受賞のあいさつ)
小説家の僕にとって、翻訳と言う仕作業はいつも変わらず大事な文章の師であったし、それと同時に気の置けない文学仲間でもあった。もし翻訳という「趣味」がなかったら、小説家としての僕の人生はときとして耐え難いものになっていたかもしれない。(翻訳の神様)
このように、僕は文章の書き方についてのほとんどを音楽から学んできた。逆説的な言い方になってしまうが、もしこんなに音楽にのめり込むことがなかったとしたら、僕はあるいは小説家になっていなかったかもしれない。(違う響きを求めて)
僕は明白な結末というのが好きではないのです。日常生活のほとんどの局面において、そんなものは存在しないわけですから。(ポスト・コミュニズムの世界からの質問)
(『海辺のカフカ』の中で)僕が少年の物語を書こうと考えたのは、彼らが「変わりうる」存在であり、その魂がまだひとつの方向に固定されていない、柔らかな状態にあるからだ。(中略)一人の人間の精神が、いったいどのような物語性の中でかたち作られていくのか、どのような波が彼らをどのような地点に運んでいくのか、それが僕の書きたかったことのひとつだった。(柔らかな魂)
カフカが友人にあてた手紙の引用)「思うのだが、僕らを噛んだり刺したりする本だけを、僕らは読むべきなんだ。本というのは、僕らの内なる凍った海に対する斧でなくてはならない」(凍った海と斧)
僕の小説が語ろうとしていることは、ある程度簡単に要約できると思います。それは「あらゆる人間はこの生涯において何かひとつ、大事なものを探し求めているが、それを見つけることができる人は多くない。そしてもし運よくそれが見つかったとしても、実際に見つけられたものは、多くの場合致命的に損なわれてしまっている。にもかかわらず、我々はそれを探し求め続けなければならない。そうしなければ生きている意味そのものがなくなってしまうから」ということです。(遠くまで旅する部屋)
2014/9


P.S.
ビートルズの「Norwegian wood」は「ノルウェーの森」と訳されていますが、当時のイギリスでは「北欧家具」のことを指す言葉だったとのこと。彼女が部屋を見せて「ノルウェーの森はいいでしょう」というより「北欧家具はいいでしょう」のほうが意味が通っている?
しかし、どちらも違うのかもしれません。「knowing she would」の歌詞が露骨すぎるとして変更を求められたジョン・レノンが、独特の言語感覚で「Norwegian wood」としてしまったとの説も紹介されています。これが一番ありそうです。