りぼんの読書ノート

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須賀敦子を読む(湯川豊)

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著者は、コルシア書店の仲間たちヴェネツィアの宿の担当編集者だった方です。さぞ須賀さんのエピソードをたくさんご存知なのでしょうが、「本ができるまでの舞台裏を書く気はない」として、あくまでも須賀さんが生前に出された5冊の著作をテキストとして「著書を読み解く」との姿勢で書かれている「須賀敦子論」。

須賀さんの小説には独特の品格を感じていました。自伝的要素を多く含んでいながら、決して「自我」を強く押し出す日本風の私小説ではなく、「感性」の鋭さを誇るようなエッセイでもない。自分に対しても、他者に対しても、「絶妙の距離感」を保っているように思えるのです。いったい、そういう作品はどのようにして生まれたのでしょうか。著者は、須賀さんがナタリア・ギンズブルグのある家族の会話を翻訳した際に語った言葉に大きなヒントがあると言っています。

「自分の言葉を、文体として練り上げたことがすごい。いわば無名の家族のひとりひとりが、小説ぶらないままで、虚構化されている。あ、これは自分が書きたかった小説だ、と思った」

それを見事に実現したのが、会話文を「 」で括るだけでなく、地の文章で表すことによって、「ひとつひとつの場面をみずから生き直して、読者をそこに引き入れる」独特の文体であると指摘されています。それは同時に、須賀さん自らが深く体験された「ヨーロッパなるもの」を、読者に身近に感じさせる効果もあるように思えます。

晩年の須賀さんは、「文学と宗教」の両立を意識されていて、「フィクションへと踏み込もうとしていたのではないか」との指摘もありますが、遺稿を含む地図のない道を読んだときに同じことを感じました。須賀さんバージョンの黒の過程(マルグリット・ユルスナール)のような作品を読んでみたかった・・。

2010/5読了