福原遷都の失敗、源頼朝や木曽義仲の挙兵、さらに平清盛病死と、栄華を誇った平家一門の没落が始まります。まずは年表を記しておきましょう。
1180年6月 福原遷都
1180年8月 文覚から平家追討の院宣を受けた源頼朝が伊豆で挙兵
1180年10月 富士川合戦で平家軍敗走
1180年11月 京へ都返り
1180年12月 後白川法王が院政再開、平重衡による南都炎上
1181年2月 平清盛死去
1183年5月 木曽義仲が俱利伽羅峠の戦いで大勝利、平家軍7万騎の兵を失う
1183年7月 平家一門の都落ち、源氏軍の入洛
わずか3年の間に天下の情勢は一変してしまいました。清盛亡き後の平家一門の結束の乱れもさることながら、「奢る平家」に対する怨嗟の声が世間に満ちていたのでしょう。各地で燎原の火のように起こった源氏軍の蜂起は、地方豪族たちの援兵をたちどころに集めていくのです。その一方で、これまでないがしろにしていた後白河法王の反平家感情も計算違いだったようです。源義経という軍事的天才の出現などもちろん想定外。
平家が生き残る可能性があったとすれば、1181年8月に後白河法皇を経由して密かに伝えられた源頼朝からの和睦申し入れを受諾することだったでしょうか。しかし新たな平家総帥となった清盛の3男・平宗盛は、一顧だにせず和睦を拒否。もうひとつの失敗は、都落ちの際に後白河法皇を同行できなかったこと。京に残った法王による平家追討の院宣によって、朝敵とされてしまった影響も無視できません。
夫・清盛を失くしたばかりの二位尼・時子は、この非常事態にあって悲しみにひたる間もありません。軍事のことなどわかるはずもありませんが、平家一門の結束を維持するために表に裏に動き回らざるを得ないのです。本書では「源頼朝の首を墓前に供えよ」との清盛の遺言は、時子による偽造とされています。実娘である故高倉天皇の中宮・徳子を後白河法王に差し出そうとしたことも含めて、真相は歴史の闇に沈んでいます。老いていく時子を支える4男・知盛の妻・明子(治部卿局)は守貞親王(後高倉院)の乳母であり、平家滅亡後に建礼門院や後高倉院の最期に侍って平家の終わりを見届ける女性です。
2024/4