りぼんの読書ノート

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野原(ローベルト・ゼーターラー)

著者の代表作である『ある一生』は、アルプスの村で生まれ育ち、貧しく平凡な生涯を送った男の生涯を淡々と綴っただけの作品でありながら、ミリオンセラーとなり、国際ブッカー賞候補作にまでなりました。多くの者たちの生涯の断章からなる本書とは対照的ですが、語られなかった行間に大きな広がりを感じさせる作品という点では共通しています。

 

オーストリアの小さな町パウルシュタットにある「野原」と呼ばれる墓所に通い詰めるひとりの老人。白樺のベンチに腰掛けた老人が耳を傾けるのは、死者たちが語る声にほかなりません。20世紀から21世紀にかけてこの町に生きた29人の男女が振り返る人生とは、どのようなものだったのでしょう。

 

死者たちの大半が思い出しているのは、彼らが幸福だった瞬間ではありません。夫婦の亀裂、家族を喪った哀しみ、叶わなかった恋、償われなかった罪、ならず者の悲哀、汚職への開き直り、人々への罵倒・・。しかし失意の中で終わった人生であっても、恋する喜びや人間の尊厳を感じた瞬間があるのです。やがて死者たちの声は繋がりあって、町の歴史を浮かび上がらせてきます。そして死者たちが語らなかった所にもまた、別の物語が潜んでいることに、読者は気づかされるのです。

 

老人が若き日の友に語ったように、「目の前にどんだけいろんなもんがあるか」は、ただ感じ取るべきものなのでしょう。死者の声に耳を傾けることは、死者に語らせることとは違うようです。もちろん、聞き手が聞きたいことを死者に代弁させることとも。

 

2023/5