りぼんの読書ノート

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地図と拳(小川哲)

2023年1月の直木賞受賞作は、満洲の架空の都市の半世紀にわたる興亡を通して、戦争に至る構造を描いた大作でした。奉天の東方に位置する李家鎮なる小村は、石炭鉱脈の発見によって発展していくのですが、やがて日本敗戦と満州国消滅によって消え去っていくのです。

 

数多くの登場人物の中で中心になるのは、日露戦争前夜に陸軍特務機関の通訳として渡満した際に李家鎮の「燃える土」に注目し、後に満鉄の重要人物として炭鉱街を築いた細川です。類稀なる先見の明を有する細川は、満鉄を辞して日中戦争、太平洋戦争を回避する道を探り続けたものの、軍部が主導する世論の昂まりの中で理念を放棄。彼なりの方法で未来に関与し続ける道を選びます。

 

細川が立ち上げたシンクタンクに集まった人物は、日露戦争で戦死する元特務機関員・高木の妻の再婚相手となった気象学者の須野を筆頭として、須野の息子で建築学の申し子のような明夫、反戦思想を有する天才都市計画者の中川や財務に秀でた石本、海軍エリート仕官の赤石らの若き精鋭たち。しかし戦争という怪物が立ち上がってくる中では、誰もが無力感を抱かざるを得ません。中国側では、義和団の生き残りで李家鎮を簒奪して日本軍と微妙な協力関係を築いた孫悟空と、彼の娘ながら父親を憎み続ける丞琳ら。彼らもまた土着的な村の未来図を描いていたのですが、もちろん実現することはあり得ません。

 

タイトルの「地図」は理念を、「拳」は暴力を象徴しているのでしょう。侵略と防御、発展と破壊などの対照的な用途のための手段にすぎないのですが、「国家による侵略戦争」となる組み合わせは最悪です。まさにその最悪の事態が過去に起こったわけですが、著者は登場人物のひとりに「過去と未来は別の概念ではなく。同じ大地の中にある」と語らせています。満州国という異物の失敗の歴史をフィクションとして描いた本書は、未来に向けた警鐘の書なのでしょう。

 

2023/5