りぼんの読書ノート

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高瀬庄左衛門御留書(砂原浩太朗)

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50歳近くになって作家デビューした著者による第2長編ですが、既に藤沢周平葉室麟の作品のような風格を有しています。本書の舞台となっている架空の神山藩も、海坂藩や羽根藩のような存在になっていくのかもしれません。

 

主人公は、10万石の神山藩で郡方を努める50歳の高瀬庄左衛門。2年前に妻を亡くし、今また後継ぎの息子を事故で失って、ただ務めを全うしながら老いていく日々を過ごしています。そんな庄左衛門の唯一の気晴らしは手慰みの絵画であり、実家へと戻した息子の嫁の志穂に絵を教えることにささやかな楽しみを見出しています。しかしそんな彼のもとへも藩の政争が押し寄せてきます。異例の出世で筆頭家老に上り詰めた宇津木頼母を追い落とす陰謀が、貧しい山村からの強訴という形で現れようとしていたのです。郡方としての責任が問われることはもちろんのこと、その陰謀には若い時代に道場で腕を競ったかつての朋友も関わっていたのです。

 

温厚で実直な庄左衛門が、自分の小さな世界を踏みにじる者に怒りを感じて剣を抜く場面がクライマックスですが、それはほんの一瞬のこと。物語を支配するトーンは終始、老いることの寂しさであり、これまでの人生への後悔であり、それでもなお後に続く若者たちに何かしてあげたいという思いです。それが老後の歓びとなるのか、それとも再び辛さを味わうことになるのか、そんな個人的な感情への打算など既に消え去っているのです。

 

「時代劇は大人のファンタジーである」とは誰の言葉だったでしょうか。理想的な武士の生き方を全うした人物など当時も稀有だったに違いないのですが、誰もが個人的な欲望をむき出しにしている現代社会に生きる我々だからこそ、己を律して禁欲的に生きる人物像に共感を抱くのでしょう。

 

2021/6