りぼんの読書ノート

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ウィトゲンシュタインの愛人(デイヴィッド・マークソン)

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なんとも不思議な小説です。ある水曜か木曜に目を覚まして、世界には自分以外、誰一人残されていないようだと気付いた女性ケイトの一人語り。夫や息子がいたようですが既に亡くなっており、誕生日も思い出せませんがおそらく40代後半。記憶も定かではない精神の空白期間が癒えた後、彼女は他の人々を探して世界中の美術館を訪れました。放置された車や船に乗ってヨーロッパの各地を訪れた後、再びアメリカに戻ってとある海辺の家で暮らしながら、記憶に残っていることを旧式のタイプライターで綴ったのが本書という設定。

 

彼女が綴るのは、することがほとんどない週末世界での日常のこと。ローマのスペイン階段で何百個のテニスボールを次々に転がしたこと。フィレンツェのアルノー川に17個の腕時計を17時間かけてひとつずつ投げ入れたこと。パリでモディリアニを呼び出すためにあちこちの通じない公衆電話にコインを投入したこと。ロンドンのミイラの詰め物をさぐって女性詩人の失われた詩を探そうとしたこと。トルコのトロイヤ遺跡の小ささに失望したこと。ニューヨークのメトロポリタンのホールで暖を取るために火を焚いたこと。そして綺麗になった世界中の川の水を飲んだこと。

 

彼女は同時に、日々考えるとりとめのないことを綴ります。美術、音楽、文学、哲学、ギリシャ神話に思いを巡らせ、「まったく男どものすることときたら」とか「女どものすることときたら」と嘆くのです。そのような小説には終わりはないのですが、彼女は「自分はこうしたことが起こる前から、実質的には今と同じくらい孤独だったのではないか」と気づいてしまうのです。ある種の孤独は別の孤独とは異なるのかどうか。正気を保ちながら不安から自由になる方法に狂うことなのか。自分が書いている事柄の多くはそれら自体から等距離にあるという感覚には、どんな意味があるのか。そしてこのような世界で自己認識を保つことは可能なのか。

 

著者は本書について「ウィットゲンシュタインの『論理哲学論考』の世界に人が暮らしたらどうなるのかを実践した小説」だと語っています。「世界はそこで起きることのすべてである」から始まり「語りえぬ世界については沈黙するしかない」で終わる、あの独特の哲学書ですね。新書の解説書を読んだことはあるけれど、原典を読んだことはありません。こう聞くと難しそうですが、主人公の女性が抱く、さまざまな芸術作品やギリシャ神話に対するユニークでみずみずしい感覚が楽しい作品でもあるのです。

 

2021/6