本書で綴られるのは、アルプスに抱かれた村で20世紀はじめに生まれ、貧しく平凡な生涯を送った男の物語にすぎません。しかし誰の人生も特別なものであるように、彼の人生には幾多の個人的な事件が散りばめられているのです。
その男アンドレアス・エッガーは、私生児として生まれ、母を亡くした後で親戚の農場主に引き取られて過酷な労働を強いられます。少年時代の彼の記憶には、雪山で出会った瀕死のヤギ飼いから「死ぬときには氷の女に出会う」と告げられたことが刻まれました。
ずっと残ることになる足の障害、生れて初めての恋、危険と背中合わせのロープウェイ建設作業、つつましくも幸せな日々を破壊した雪崩、戦争を伝えるラジオ、ロシアでの長い抑留生活、復員後の山岳ガイドへの転身、やがて年を経て引退し人里離れた小屋で暮らし始めたエッガーは、ついに「氷の女王」と出会うのです。
簡潔で力強い語り口は、客観的に見るならば悲劇の連続でしかない出来事を淡々と受け止めてきた、主人公の生き方と重なります。本書を読了した後の満足感は、ひとつの人生に最後まで寄り添ったとの思いに由来するのでしょう。
2019/10