りぼんの読書ノート

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カラマーゾフの兄弟 第2部(ドストエフスキー)

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第2部ではアリョーシャの慌しい1日を通じて、物語の本質を貫く2つの思想が語られます。
死の淵にある長老ゾシマを残して父フョードルの家に向かったアリョーシャは、父と長男ミーチャとの確執の深さを思い知らされ、帰路で仲間から苛められている少年イリューシャと出会い、カテリーナからはミーチャへの複雑な感情を聞き、さらにミーチャから辱められたという貧しいスネギリョフ大尉の家に赴いてイリューシャが彼の息子であることを知るのですが、それらは全て今後の展開に結びついていく伏線ですね。

しかし第2部の中核をなして、この作品全体の真髄となっているのは、兄イワンの語る「大審問官」のレーゼドラマでしょう。中世のスペインに再来したイエスとおぼしき男を捕縛した大審問官が、彼に沈黙を強いながら語る言葉は強烈です。「人はパンのみに生きるものではない」と唱えながら民衆にパンの生産手段を教えることなく、「奇蹟によって神を試さない」としながら民衆に奇蹟の存在を信じさせ、「地上の王者となることを拒む」一方で地上を理想的に統治する方法を示さなかったではないかと問うのです。

やがてイワンの主張は「この世界に他人を赦す権利をもっている者などいるのだろうか」という一点に集約されていきます。人間は、「赦す者」に屈服するくらいなら、むしろ「自由」を選んで贖われざる苦悩を享受すべきではないかと主張するのですが、黙したままのイエスとおぼしき男が去り際に大審問官の唇に静かに接吻するという行為の意味はどこにあるのでしょう。

イワンの問いに対する著者の回答は、死に行くゾシマ長老が語った最後の教えの中に示されます。ゾシマの語る苦悩と悟りは、赦す存在としての神をローマ・カトリック的な唯一の絶対的存在から解き放ち、ロシア正教的な神愛の中に拡散させていくかのようです。読みようによってはアジア的多神教に近づいているかのようにも思えますが、もちろんそんなことはありません。多神教の世界観からは、イワンのような問いは生まれえないのですから。

第2部前半のアリョーシャの体験をストーリー的な伏線として、イワンとゾシマの間接的な対決を精神的な伏線として、物語はいよいよ第3部のクライマックスに入っていきます。

2012/8再読
第2部目次
第4編 錯乱
第5編 プロとコントラ(大審問官)
第6編 ロシアの修道僧(ゾシマ長老の生涯と談話)