りぼんの読書ノート

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親鸞 激動篇(五木寛之)

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親鸞の生涯は大きく3つの時期に分けられるそうです。30代までの勉学の時代と、流刑者として越後へ送られ後に関東で暮らした60代までと、京都に戻ってから90歳で亡くなるまで。少年期から青年期を描いた前書親鸞に続く「激動篇」では、第2の時期である壮年期の越後流刑時代と関東時代が綴られます。

「専修念仏停止」にあい、師・法然と引き離されて越後に流刑された親鸞が出会ったのは、「外道院」と自称する異様な法力の持ち主でした。彼のように、穢れを恐れず河原に住み、民の支持を得ている存在は、政権交替によって治世が乱れ、末法期に入ったこの時代には実際にいたのでしょう。

いまだ「聖人」とはほど遠い親鸞は外道院を邪宗として否定することなく、むしろ民衆の願いを具現する存在として認め、一種の協調関係を保っているようです。親鸞自信も民の願いを無私しきれず、本来否定しているはずの現世利益の「雨乞い」を行なうことになってしまうのですが・・。

流刑の解けた親鸞は帰郷せず、宇都宮氏に請われて関東に赴きます。坂東武者の地では、専修念仏と武士の求める理念の共通点と相違点が問われたのみならず、念仏から派生した異端思想の「造悪派の黒念仏」や「賢善派の白念仏」と対峙することになるのです。

そして「黒念仏」を唱える「黒面法師」こそ、十悪五逆の限りを尽くしている仇敵であり、親鸞は3度目の対決を迫られます。「悪人正機説」はまさに、この人物によって試されているのでしょう。

著者の描く親鸞は、混沌とした時代の中で真実を求めてもがき続けます。その中でたどりついた「阿弥陀如来が末世に生きる者に呼びかける声を聞くために念仏を唱える」という平易な表現での教えはわかりやすいですね。念仏とは、阿弥陀様の声に心の周波数を合わせるチューニングなのか・・。^^

ただ、前書に続いてエンターテインメント性を心がけたと思える劇的な展開であるのに、登場人物もエピソードも類型的に思えてしまうのは残念です。

2012/3