りぼんの読書ノート

Yahooブログから移行してきた読書ノートです

ディビザデロ通り(マイケル・オンダーチェ)

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物語の始まりとはいったい何で、どこで終わるのか。ある種の物語は読者にも引き継がれて、無限の連鎖や分岐を持っているようにも思えます。ところが、小説には始まりがあって、終わりがある。とすると、確固たる開始点と揺るぎのない大団円を備えた小説が、必ずしも完成度が高いというものではないのかもしれません。

そんな感想を抱かせてくれたこの小説は、ひとつの「家族」が崩壊する描写から始まります。娘アンナを得た直後に妻を失った男は、やはり生まれた母親を失った赤子のクレアを引き取り、「双子の姉妹」として育てます。さらに両親を殺害されて孤児となったクープを「兄」として引き取り、北カリフォルニアの農園で「擬似家族」として暮らすのですが、「喪失」によって結ばれた家族関係を崩壊させたのは、アンナとクープの恋愛という新たな結びつきだったのです。

物語は断片化していきます。月日がたち、フランス人作家リュシアン・セグーラが暮らした家に住みながら、リュシアンを研究しているアンナが出会うラファエルという男性は、晩年のリュシアンと人生をともにしたジプシー一家の息子でした。

家を飛び出してポーカー・プレイヤーとなったクープは、いかさまを拒絶して暴力を振るわれ、記憶に傷害を持つようになります。サン・フランシスコの法律事務所で働くクレアは、偶然にクープと出会い、アンナとクレアを区別できなくなったクープを連れて、育ての父親のもとに戻ろうと決意するのですが、16年ぶりの再会がどうなるのか、これ以上の記述はありません。

物語はますます断片化していき、過去に遡ります。青年期のリュシアンと、隣人となった無骨なロマン氏の若妻マリ・ネージュの間に交わされた秘めやかな感情の閃き。やがて作家となったリュシアンが、不幸の中で死んだマリ・ネージュの物語を書き続けたという断章。そして、全てを書き終えた時点での、ジプシー一家との出会い。

いったいこれは何の物語なのか。サン・フランシスコにあるという「ディビザデロ(境界線)通り」とは、何を意味するのか。答えは、この物語を受け取った、ひとりひとりの読者が見い出さなくてはならないのでしょう。すでにアンナをいう名を捨てた女性はこう言っているのです。「それがどんな物語であるにせよ、わたしたちは何度も繰り返される自分自身の物語のなかで永遠に生きていくのである」と・・。名作『イギリス人の患者』の著者の到達点です。

2009/3