りぼんの読書ノート

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大仏ホテルの幽霊(カン・ファギル)

名門幼稚園に渦巻く階級意識と悪意を描いた短編「ニコラ幼稚園(短編集『大丈夫な人』収録」の執筆に取り掛かったものの1行も書けなくなった著者が、母の親友の故郷・仁川で感じた女性の霊とは何だったのでしょう。そこは日本占領時代に建てられた西洋式「大仏ホテル」の廃墟だったのです。朝鮮戦争でも破壊されずに残ったホテルで、1955年何が起こっていたのでしょう。中核となっているのは母の親友の母パク・ジウンが語る物語ですが、それは真実とは言い切れません。

 

当時、ボロボロになったホテルに3人の若い男女が居場所を見つけていました。後にパク・ジウンと結婚する寂れた中華料理フロアを切り盛りする華僑のルェ・イハン。わずか3室のホテル運営を任されながらアメリカ行きを目論んでいる孤児のコ・ヨンジュ。そしてアメリカ軍による無差別爆撃で天涯孤独の身となったチ・ヨンヒョン。ある日、シャーリィ・ジャクソンというアメリカ人女性作家が大仏ホテルに長期滞在することになって、韓国社会に暗く息づいている「恨(ハン)」の物語が動き出します。

 

本書を理解するためには、いくつかの歴史的事実を知っておく必要があります。1つめは戦況が目まぐるしく変わった朝鮮戦争時に65万人もの民間人犠牲になったこと。朝鮮人民軍占領地で起こった左翼青年の蜂起と、国連軍反攻時に朝鮮人民軍への協力者への断罪という、民間人同士の虐殺による犠牲者がそこには含まれています。2つめは仁川上陸作戦に先行して行われたアメリカ軍の仁川・月尾島への無差別爆撃で多数の民間人が犠牲になったこと。3つめは戦後の朴正熙政権による排外政策が激しい華僑差別を産み出したこと。混乱の中で戸籍も失われたため、身分詐称や経歴詐称も横行したようです。本書ではチ・ヨンヒョンの正体は最後まで謎に包まれています。

 

本書を強いて分類するならゴシックスリラーとなるのでしょう。しかし著者がこれまで綴ってきた、女性の一人暮らし、少女どうしの友情、母と娘の葛藤などのフェミニズム要素も含まれており、奥行きの深い重層的な作品となっています。自分自身をも登場させたメタフィクション作品の中で、著者が「恨」を昇華させていく手際はあまりにも見事です

 

ちなみに本書に登場するシャーリィ・ジャクソンは幽霊小説の作者として知られる実在のアメリカ人作家ですが、彼女が韓国に滞在したとか、朝鮮伝承の怪談をベースとする作品を書いたとかの事実はありません。他にも「アナスターシア伝説」と二重写しになる李氏朝鮮の皇女や、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』や、「銀河鉄道999」を思わせるエピソードも登場しています。どれもが「現実の姿」と「あるべき姿」との差異に悩み苦しむ物語です。

 

2024/3