りぼんの読書ノート

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黄金虫変奏曲(リチャード・パワーズ)

現代アメリカを代表する著者が1991年に書き上げていた第3長編が、ようやく邦訳されました。この作品だけ遅れていたのには理由があります。2段組み850ページという大作であることに加え、分子遺伝学、進化論、情報科学、音楽、文学、歴史、絵画などの知識が縦横無尽に駆使された野心的な作品なのですから。ただ出版後30年も経ってしまうと、物語の舞台が「現代」ではなく「過去」になtってしまうのですが、そこは仕方ありません。

 

『黄金虫変奏曲(The Gold Bug VAriations)』というタイトルは、バッハの「ゴルドベルク変奏曲(Godberg Variations)」に、暗号解読をテーマとするポーの短編小説『黄金虫(The Gold-Bug)』を掛け合わせて作られています。DNAに二重螺旋上に並ぶ4種の塩基ATGCの組み合わせ解読が、4音からなる低音主題の変奏曲に例えられているわけです。冒頭と末尾のアリアに挟まれた30章という構成や、各章で綴られる内容もバッハの変奏曲に対応しているという念の入れよう。もちろん4人という主人公たちの組み合わせも。

 

本書の書き手と見なされるのはニューヨークの図書館司書を辞めたばかりの30代の女性オデイ。彼女は2年前に消息を絶った元恋人トッドとの再会を渇望しながら、当時の思い出を綴っていきます。美術史家を志しながらデータセンターの夜間業務に就いていたトッドの、博学な年上の同僚がレスラーであり、彼の経歴は謎に包まれていました。実はレスラーは1950年代に遺伝子暗号の解読を目指す競争の最先端にいた新進気鋭の生化学者だったのです。彼が研究の表舞台から姿を消した背景には、同僚ジャネットとの悲恋があったのですが・・。

 

1950年代のトッドとジャネット。1980年代のオディとトッド。2組の男女の恋愛模様が、長い時の中で反復や変奏を奏であいながら、二重螺旋のように絡み合っていきます。自分自身の根源に対する問いは、生命の根源を解き明かそうという試みと重なり合っていくわけです。種と個人の関係が幾度となく問いかけられる本書には、不吉な兆候も多く登場します。種に進化や多様性をもたらす塩基配列の変異は、個人レベルでは死や病や不妊や先天性疾患をもたらすのですから。さらに人類の傲慢で愚かなふるまいが、人類自身を含む多様な種の保存を脅かしているという事実も、幾度となく強調されています。

 

しかし「訳者あとがき」にあるように、「それでもやはり、この小説は祝福の歌」なのです。たった1行からなる末尾のアリアまで読めば、それは明らかです。遺伝子が全てを決定するわけではないことは明白なのですし。ただし訳者の「本書を読む際のBGMにはバッハの『ゴルドベルク変奏曲』をお薦めしたい」との意見には同意できません。一度試しましたが楽曲のバリエーションが気になって読書への集中が削がれてしまいました。

 

2023/9