りぼんの読書ノート

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猫を棄てる(村上春樹)

村上春樹さんの小説にはしばしば戦争の描写が登場します。『ねじまき鳥クロニクル』のノモンハン事件や、『騎士団長殺し』の父親の戦争体験などですが、その背景には、中国大陸で従軍した実父・千秋さんから継承した疑似戦争体験があったようです。本書は、著者が父親について語ったエッセイです。

 

本書は、著者が小学生だった頃に父親と猫を捨てに行った思い出から始まります。帰宅すると猫はなぜか自宅に戻っていて、その後も飼い続けることになったとのこと。『ねじまき鳥クロニクル』を思わせるエピソードですが、やがて思い出は父親の戦争体験に及んでいきます、

1917年に京都の寺の次男として生まれた父親は、宗教学校に在学中であった20歳の時に召集されて中国に派兵されます。日中戦争が激化した時期ではあったものの1年で除隊。1941年に再召集されますが、わずか2カ月後に召集解除されて京大文学部に入学しました。この時召集された部隊は、後にフィリピンでほぼ全滅しており、いわば命拾いできたわけです。父親の実戦体験はわずかだったようですが、中国で捕虜を処刑したという打ち明け話は、幼かった春樹少年の心に強烈なインパクトを残すことになりました。

 

著者は作家となってから父親とは縁遠くなってしまい、死の間際に「和解のようなこと」を行っただけだそうです。父親の経歴や従軍記録を調べ始めたのはその後のことですが、「どのように不快な、目を背けたくなるようなことであれ、人はそれを自らの一部として引き受けなくてはならない」との信念は揺るがなかったのでしょう。自身の誕生が偶然の結果であったことが、「個人的な物語は大きな物語の一部でもある」との思いを強くしたのかもしれません。

 

著者の戦争への思いは、さまざまな小説作品においても、パレスチナウクライナに言及した発言からも明白です。村上文学のルーツに触れることができたように思えた1冊でした。台湾出身の若い女性である高妍さんによる、どこか懐かしい雰囲気をたたえたイラストも印象的です。

 

2023/8