りぼんの読書ノート

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宗歩の角行(谷津矢車)

江戸時代の将棋の家元である大橋家、大橋分家、伊藤家の御三家の出ではないため、当時世襲制だった名人には推挙されず、段位も7段までしか上がらなかったものの、天野宗歩の実力は他に抜きんでていたようです。あの羽生九段も「歴史上一番強い棋士」のひとりとして名を挙げているほど。しかし晩年は酒色に溺れて賭け将棋も指し、44歳にして謎の死を遂げています。本書は、彼をめぐる21人の証言から、宗歩の生涯の再構築を試みた小説です。

 

己を超える天才の弟子と不仲であったといわれる11代大橋宗桂、京都時代に宗歩が薫陶を受けた「横歩取り」の大橋柳雪、「遠見の角」に敗れた伊藤宗印、「吐血の対局」で知られるライバルの8代大橋宗珉、幼馴染みで一番弟子となった市川太郎松などの棋士たちはもちろん、前妻、後妻、弟子、賭け将棋の胴元、行きつけの煮売り屋、将棋の手ほどきをした宮大工、馴染みの芸者などへのインタビューは、彼の実像に迫っているのでしょうか。そして彼が「真のライバル」と思い定めていた相手と再会した時に何が起こったのでしょうか。そもそも彼の生涯を訪ね歩いく「聞き手」とはいったい何者なのでしょうか。

 

時代や制度の枠に嵌まりきった将棋界に対する「孤高の天才の絶望」へと収斂されていく物語ですが、「それだけではないはず」という余韻も残しています。何より多くの読者は彼を、実力のみが雌雄を決する現代将棋界で戦わせてみたいと思ったに違いありません。藤井聰太という若き天才の出現に沸く将棋界を題材にしたタイムリーな作品です。いや2022年9月という時期に出版された本書は、そもそも藤井聰太の活躍に触発されて書かれたのかもしれません。

 

2023/8