りぼんの読書ノート

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興亡の世界史17.大清帝国と中華の混迷(青柳正規編/平野聡著)

著者は「大清帝国ほど、建国から崩壊にいたるまでのあいだにその性格が大きく変わった国家は多くない」と述べています。そしてそのことが「この帝国自身や、その中から生まれてきた近代中国という国家を捉えることを難しく」しているというのです。さらにそれが日本、朝鮮半島チベット、モンゴルなどの周辺国家・地域との、現在に至るまで未解決の問題を生み出したというのです。

 

北方の異民族である女真族マンジュ部を統一して後金国を建てたヌルハチは、1618年に明国に叛旗を翻します。彼の跡を継いだホンタイジ朝鮮半島や現在の内モンゴルを従えて国号を清と改め、さらにその跡を継いだ順治帝は1644年に北京入城。直前に明朝を滅ぼしていた李自成を下して中華に覇を唱えるに至ります。清は続く康熙帝雍正帝乾隆帝の3代に渡って拡大を続けて最盛期を迎えることになるのですが、「異民族による中華支配」はどのように運営されていたのでしょう。

 

まず問題になったのは中華に根強く残る「華夷思想」でした。とてつもない人種差別思想ですが、究極の専制君主とされる雍正帝が打ち出したのは「中外一体」思想です。人種・民族に優劣はなく、優れた人物・制度が政治・軍事の指導権を持つのであるとの思想は一見すると平等主義のようですが、その実は皇帝自身と満州民族の支配を正当化するものですね。さらに儒学思想そのものを否定するのではなく、皇帝自らがチベット仏教に帰依することで、文化的な中立姿勢を打ち出します。ただし「中外一体」の版図とされて優遇されたチベット、モンゴル、新疆が、現在の中華人民共和国の領土とみなされてしまい、一方で明朝と「華夷思想」を崇拝するあまりに清朝に対しては朝貢国との立場に甘んじていた朝鮮が、紆余曲折はあったにせよ独立国となったわけですから、歴史とは皮肉なものです。

 

清朝は、19世紀以降の欧米諸国の進出と侵略に対応できずに滅び去ることになります。列強各国に領土を侵食され、いち早く「近代的な主権国家」と変身を遂げた日本にも後れをとり、辛亥革命中華人民共和国の成立を経て現在に至っているわけですが、その過程で「内陸アジアの帝国」から「東アジアの帝国」へ、「多文化帝国」から「中華の現代国家」へと変貌してきたことをきちんと理解しておくべきなのでしょう。現代中国で噴出する民族問題や、覇権主義に陥った対外問題は、清朝末期から継続している未解決の課題であるとの著者の指摘には頷けます。同時に歴史認識を共有することの難しさも。

 

2023/2