りぼんの読書ノート

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名残の花(澤田瞳子)

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天保の改革において目付や南町奉行として蘭学や市中の取り締まりを行い「妖怪」と呼ばれた鳥居耀蔵は、のちに失脚して有罪となり、丸亀藩に預けられます。明治維新で恩赦を受けて20年間の軟禁生活を終えた時、江戸は東京と名前を変えていたのです。実家の林家には彼を見知っている者もなく、70歳を超えた鳥居耀蔵あらため鳥居胖庵は、官吏となっていた孫の家に同居させてもらいながら、昨今の軽佻浮薄な風潮を嘆くばかりでした。本書は、そんな胖庵が、困窮に喘ぐ見習い能役者の豊太郎と出会い、やるせない市政の事件に遭遇していく連作短編小説です。

 

晩年の鳥居耀蔵を能役者と組ませるという発想が素晴らしいですね。徳川家のお抱えであった四座一流の能役者たちは明治維新によって身分も生計の術も失っていました。かつて華美な歌舞音曲を取り締まった耀蔵は能役者たちからも恨みをかっていたのですが、明治の代ではともに時流から取り残された存在でしかありません。著者は耀蔵のことを、江戸の庶民を愛し彼らの活力を信じていたが故に、倹約が求められた時代において為すべきことを行った人物として描いています。もっとも弾圧を受けた側では、そうは思ってくれていないのですが。

 

老いてなお矜持を保ち続ける金春座の太夫。掏りに身を落としながら今なお耀蔵を憎む元金春芸者。未熟な腕前で能役者を続けている兄を転身させようとする弟。かつて士分を捨てて狂言作者となっていた息子を案じる老いた父親。由緒ある対の鴛鴦の香炉を相手に知らせずに売り払っていた夫婦。阿諛追従を重ねて新政府に出仕する元部下や、個人的な怨念から古来の伝統を憎む新興商人もいるものの、登場人物の多くは、居場所を失いながらも転変の世を生き抜いている者たちです。明治初期の江戸を描いた作品は数多くありますが、能吏であった耀蔵に明治維新の綻びを予言させた本書の視点も独特のものと言えるでしょう。

 

2021/9