りぼんの読書ノート

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いかさま師ノリス(クリストファー・イシャウッド)

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1929年から1933年にかけてべルリンに滞在していた、当時まだ20代の著者によって1935年に書かれた本書には、崩壊寸前のワイマール共和国における混乱や猥雑さがリアルタイムで描かれています。

 

物語は、著者の分身であろう若いイギリス人青年ウィリアムがベルリンに向かう列車でアーサー・ノリスなる立派な身なりをした中年男性と知り合う場面から始まります。ウィリアムは貿易業者だというノリスを介して一癖も二癖もある面々と出会いますが、当のノリスの生活は乱れていました。贅沢な乱痴気騒ぎをしては困窮して姿を消し、次に現れる時にはなぜかまた大金を手にしているという具合なのですが、ウィリアムは彼の奇妙な誠実さに惹かれていきます。

 

世界恐慌後の不況に苦しむドイツでは共産党ナチスが急速に勢力を伸ばしており、人々の関心は政治に集まっていたのですが、ノリスもまた例外ではありません。教養人でありながら共産党に肩入れして演説会の弁士も務めるノリスに共感したウィリアムは、彼の奇妙な依頼を聞き入れます。彼の代理として、ノリスの取引先に知り合いの男爵を引き合わせるべくスイスへと向かうのですが、その取引先とは海外の情報機関だったのでした。

 

しかし正体がわかった後でもノリスは憎めない人物なのです。彼の正体は共産党にも気づかれていて、当局に売りつけた情報も価値のないものばかり。それでも自分を重要人物と思って秘密警察や党の幹部を恐れる様子は滑稽でしかありません。誰もが重視していた1933年3月の帝国議会選挙の直前にすべてがばれてしまい、慌てふためいて国外に脱出するあたりはドタバタ喜劇。しかしドイツ国民にとっての悲劇はその時点から始まったことを、本書の執筆時にはイギリスに戻っていた著者も知っていたはずです。海外から「どうしてわたくしがこのような目に遭わなくてはならないのでしょう」と嘆いてみせるノリスの手紙は悲喜劇的なのです。本当に嘆きたかったのはドイツに留まらざるを得なかった者たちだったのですから。本書はコミカルな語り口にもかかわらず、いち早くナチスの本質を見抜いていた著者による予見の書でもあったのです。

 

2021/6