りぼんの読書ノート

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地図集 (董啓章)

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1967年に香港に生まれた著者は、、香港人としてのアイデンティティを保ち続けるために書き続けているようです。はじめて香港の小説を読みましたが、中国大陸や台湾の小説とは全く異なる印象です。日に日に自由が制限されつつある現在の香港で、著者は何を思っているのでしょう。最近の作品を読んでみたいものです。

 

「少年神農」

前半は中国古代神話に基づく奇譚です。医薬と農業を司る神とされる神農は、死ぬことも老いることもない永遠の少年として、失われた少女・累(リョイ)を偲んで流離います。後半はその2人の物語を大学に置き替えたラブストーリー。ベジタリアンでエコロジストで神農とあだ名される青年を愛した蕾(リョイ)は輸血によるHIVキャリアのようですが、悲劇は思わぬ形で2人に襲い掛かってくるのでした。

 

「永盛街興亡史」

地図から消えた古い通りに残る祖父母の家に住み着いた青年が、一家の記憶からも消えそうになっている祖父母の歴史をたどります。祖母が祖父の妾となる前に歌姫であったことを知った青年は、同棲中のカラオケバーのホステスと祖母が二重写しになっていくことを感じるのでした。しかし青年の父は、永盛街なんて祖母の夢の中にしか存在していなかったというのです。

 

「地図集」

未来の考古学者が、香港の地図を読み解いていくという不思議な物語。清朝に描かれた山水画にはじまり、英国軍による香港占領前の測量図や、英国領時代に干拓や開発で激しく変貌していく香港の地図。著者は本書について「遊戯」とか「妄想」とか「虚構」と語っていますが、1841年から1997年を対象とする地図から記憶を「製造」していく物語は、もちろん中国返還を意識しています。雪の製造工場が計画されたことに由来する「雪廠街」や、銀から砂糖を製造した「糖街」や、半年ごとに植える野菜を変えた「通菜街」と「西洋菜街」などはホラ話ですが、「赤鱲角空港」は島ごと全市民を大陸から飛び立たせる計画であったとなると少々きな臭い。その一方で、日本製の要塞施設図は日本軍の香港に対する野心の証拠などではなく戦後に作成された攻略ゲーム用の地図だったとの種明かしが、やがて小説家の悪夢へと変貌する展開などには凄みを感じます。そして53編の断章の全てに、消え失せようとしている香港への愛と哀しみが感じられるのです。

 

「与作」

小説の中から生まれ出て小説の中へと帰っていく運命の女性が、成田に向かう飛行機の中で目覚め、ハンドメイド眼鏡を販売する日本人青年と知り合います。やがて愛の行為に及ぶ2人は、実は同一人物なのでしょうか。解説者は彼女について、著者の別の大作のヒロインであると種明かしをしてくれますが、かえって謎は深まった思いです。なお「与作」とは眼鏡職人の名前です。

 

2021/5