りぼんの読書ノート

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掃除婦のための手引き書(ルシア・ベルリン)

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はじめて名前を聞きましたが、邦訳されているのは本書だけなので、それも当然でしょう。数奇な人生を歩んだ作家です。鉱山技師だった父親の仕事の関係で1936年にアラスカで生まれた後も、アメリカ各地の鉱山町を転々としながら育ち、父親が第2次大戦に出征するとテキサスにある母の実家に移住。祖父も叔父も母もアルコール依存症であり、貧民街で暮らして性的虐待にもあったその時代が一番辛かったとのこと。終戦後は高給を得られるチリに移住し、一転して裕福な上流階級の身分となります。

 

ニューメキシコ大学に在学中に最初の結婚をして2人の息子を得ますが離婚。22歳の時にジャズミュージシャンと再婚してニューヨークに住みますが、やはりすぐに離婚。25歳の時に別のジャズミュージシャンと再再婚してメキシコで暮らし、さらに2人の息子を得ますが、夫が薬物中毒となったことで32歳の時に3度目の離婚。徹底して男運は悪かったようです。

 

その後カリフォルニアで掃除婦、電話交換手、ERの看護師などの職に就きながら、シングルマザーとして4人の息子を育て上げます。この時代に両親を亡くし、さらにメキシコで闘病していた妹の世話をして看取るに至ります。その一方で小説も書き始めていて、49歳の時に短編小説に与えられる文学賞を受賞。家族の業病ともいえるアルコール依存症にもかかりますが、それを克服した後、刑務所などで創作を教えるようになります。58歳にしてコロラド大学の客員教授となった後に肺疾患を患い、2004年に68歳で亡くなるという生涯をおくりました。

 

こんなに長々と著者の生涯を紹介したのは、彼女の小説のほぼすべてが実人生から題材を得た短編であるから。本書には24作もの短編が収録されていますが、対象とした時代によって、まるで全く別の人物を描いたように思えるほどに多様です。数が多いので、時代ごとに1編ずつ気に入った作品の内容を紹介しておきましょう。

 

幼少期「ファントム・ペイン

亡くなる前に幻覚を見始めていた父親の記憶はアラスカ時代に飛び、亡くなる前に山の上に連れて行って置いて来てくれるよう娘に頼みます。アラスカの冬の間に山小屋で死んで老人と山羊たちのことを思い出した娘は、父に抱いていた恐れや畏怖が消えていくのを感じるのでした。他には「マカダム」、「巣に帰る」。

 

少女時代「沈黙」

貧民街に暮らして同級生からも教師からも差別された少女の友人は、隣家のシリア人の少女だけでした。しかし彼女の不良の兄に気に入られたことをきっかけとして、その友情は壊れてしまうのです。後に少女は悟ります。沈黙は時にはとことん悪になるものだと。他には「ドクターH.A.モイニハン」、「星と聖人」、「セックス・アピール」。

 

お嬢様時代「いいと悪い」

チリの高校で、アメリカ帝国主義を非難するアメリカ人女性教師に気に入られた少女は、教師に連れられてボランティア活動に参加。しかしその教師も、労働者たちから屈辱的な扱いを受けてしまうのです。すべてにうんざりした少女は「あの教師は共産党員だ」と父親に告げた結果、その教師はクビになってしまうのでした。他には「バラ色の人生」。

 

結婚時代「エンジェル・コインランドリー店」

下町のコインランドリーでいつも出会っていたインディアンの老人を気に入っていたのに、ある時彼にひどいことを言ってしまいます。それが彼を見た最後だったと気付くのは、ずっと後の事でした。他には「ティーンエイジ・パンク」

 

シングルマザー時代「掃除婦のための手引書」

毎日バスに揺られて他人の家に通い、雇い主のことを観察している掃除婦が書き留める警句は、どれもスパイスが効いています。もちろん盗みなどはもってのほかなのですが、彼女は睡眠薬だけを盗み続けます。いつか死を望むときのことを考えて・・。他には「わたしの騎手」、「喪の仕事」、「今を楽しめ」。

 

アルコール依存症時代「どうにもならない」

13歳の息子から財布を取り上げられるなんて、最低の母親だということはわかっているのです。でも彼女は、息子が起き出す前に家の小銭をかき集めて、4ドルの安酒を買いに行ってしまい一層の自己嫌悪に陥るのでした。他には「最初のデトックス」、「ステップ」。

 

妹の看病時代「ママ」

死の床についた妹を看病しながら、既に亡くなった母の思い出を話し合う姉妹。お気に入りの話は、母が飲酒して娘たちを傷つけるようになる前のこと。でも一番のお気に入りは、まだ子供も生まれる前、愛する人との新婚生活のためにアラスカへと向かうて船の上で涙を浮かべるという、空想上の母の姿でした。「ママを愛してると伝えたい」と泣く妹と対照的に、姉は思うのです。「わたしにそんな優しさはない」と。他には「苦しみの殿堂」、「あとちょっとだけ」

 

こう見ていくと、著者の生涯に触れたように思ってしまいますが、著者を「再発見」して高く評価したリディア・ディヴィスによると「彼女の小説を読んだからといって、彼女を知ったつもりになってはならない」そうです。2015年に出版された作品集に、彼女が寄せた「ストーリーこそがすべて」と題された序文によると、著者の実体験は、取捨選択され、改変され、脚色され、誇張され、省略され、編集されることで作品となったというのですから、やはり作品に描かれた作家の姿を信用してはいけないのです。

 

2021/5