りぼんの読書ノート

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黒魚都市(サム・J・ミラー)

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海面上昇が進んだ近未来。陸地の水没や内戦によって多くの国家が崩壊し、その前から分断国家であったアメリカ合衆国ですら既に存在していない世界では、大量の難民が発生。北極圏の深海熱水噴出孔の上に立てられた巨大建築物クアナークでは、世界各地で起こった虐殺から逃れてきた百万の人々が暮らしています。しかしここも、株主と呼ばれる一握りの名士たちが高度なAI群と争い合う犯罪組織を用いて統治する、貧富の差が激しい世界でした。

 

ここでは「地図のない街」という地下放送が、歴史を語り伝え、新来者を案内し、抵抗者の噂を流し、人々の心を癒しているのですが、その正体はあまりにも謎めいています。しかしその声に引き寄せられるようにして、何人かの人々が巡り合っていきます。

 

オルカと心を通じ合わせてホッキョクグマを連れ歩く年配の女性マサーラク。政治家のもとで働きながら療養所に隠蔽された母親を助け出そうとしている若い女性アンキット。犯罪組織の女ボスのゴーと、彼女の下で八百長試合を重ねるプロファイターのカエフ。街を憎み思うままに性別を変えるメッセンジャーのソク。実は彼らの間には本人たちも知らない結びつきがあったのです。そして他人の記憶や思考が流れ込んで来て最後には死に至るという感染症に罹った大株主の放蕩孫フィルが、ソクと出会って愛し合った時に、物語は動き出していくのでした。

 

ディストピア小説に明るい未来が開けることは滅多にありません。悪玉を倒しても別の誰かがとって変わるのでは意味はないし、そもそも作中で「地図のない街」が語るように、悪玉などという概念そのものが物事を単純化しすぎているのです。しかしそれでも、人々が前を向いたり、癒しを得られたりすることは可能なのでしょう。エスカレートした「分断」が破壊してしまった世界は、ベクトルを「結合」へと変えていくことによってしか再建できないのですから。

 

2021/4