りぼんの読書ノート

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孔丘(宮城谷昌光)

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孔子を題材にした小説は多いのですが、本書が決定版なのではないでしょうか。井上靖の『孔子』は晩年近くの14年間にわたる放浪を中心に描いたものでしたし、丁寅生の『孔子物語』は論語の有名な言葉がどんな人生の局面で語られたのかを推測した作品でした。顔回をサイキックに仕立てた酒見賢一の『陋巷に在り』は楽しい読み物でしたが、もちろんフィクション。本書の著者も参考にしたという白川静の『孔子伝』は論語儒教の成立に重きを置いた作品であったように記憶しています。

 

司馬遷の『史記』にある「孔子世家」ですら史実性に乏しく、これだけ儒教が研究しつくされても生年すら確定されていない孔子の生涯を小説にするのは不可能に近いことは、著者があとがきで述べています。しかし『重耳』、『晏子』、『子産』、『管仲』などをものした著者には、孔子が生きた春秋時代の歴史を研究しつくした強みがあるのです。孔子が深く関わった魯国や諸国の動静を照合し、孔子の行動の合理性を判断しながら数多くの伝説を取捨選択して不明点を補足した作品は、もちろんフィクションですが難点が少ないように思えます。

 

母・顔徴在が亡くなった24歳の春に母の埋葬のために需を学び、魯国の地方役人となり、次いで首都・曲阜の祭祀官に登用されて詩経や歴史を学んだことが孔子の学問の基礎になりました。30歳の時に官を辞して曲阜に教場を開きます。当時は王侯貴族のためのものであった礼法を広く庶人に教え始めたことが、既に新しい学問なのです。

 

物語は次いで、 三桓家による昭公追放や、李孫氏の宰にすぎなかった陽虎による実権掌握という魯国の乱れを綴っていきます。その間に周都への留学を果たしていた孔子と陽虎の対決が、本書のハイライトといっても過言ではありません。政治や戦闘ではなく、徳や礼や学問の分野での対決ですが、長い目で見ればそれこそが命運を決するものなのです。そして50歳にして天命を知って魯国の司寇の座に就いた孔子は、政治の実権を魯君に取り戻すべく、三桓家が私領としている三都毀壊に乗り出すのですが・・。

 

やがて孔子は弟子たちとともに諸国放浪の旅に出て、ついに理想とする政治を実現することのないままに73歳で没します。末尾の一文で「15歳で学に志した孔丘にとって、死は生涯における最初の休息であった」とされるほど、孔子の生涯はエネルギッシュだったのです。弟子たちとの関係を記す余裕がなくなりましたが、後で忘れてしまいそう。

 

2021/2