りぼんの読書ノート

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黄金列車(佐藤亜紀)

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著者は、名作『天使』の舞台としたオーストリアハンガリー二重帝国に強い関心があり、メッテルニヒの伝記を書こうとしていたそうです。しかし調査を進めるに連れて、彼はただの普通の役人であり、しかもその役人ぶりが面白くて気になってきたとのこと。その思いから派生した作品が本書なのでしょう。 

 

第二次世界大戦の末期。ナチスに加担したハンガリー政府がソ連軍の侵攻を怖れて、ユダヤ人から押収した「国有財産」を国外に移そうと運行させたのが50輌もの「黄金列車」。1944年12月にブダペストを立ち、4か月間オーストリア国内を迷走した後にチロル山中のホプフガルテン終戦を迎えるまでのドタバタ劇が、官僚の立場から描かれていきます。 

 

主人公を務めるバログはユダヤ系の親友や妻を亡くしており、こんな仕事に携わるなどブラックユーモアのようなもの。しかし彼は、上司のミンコヴィッツやアヴァルらとともに、ユダヤ人の財産を守り切るのです。混乱に乗じて財宝を狙うのは有象無象の悪党ばかりではありません。組織の長である軍人政治家のトルディが、財産を着服する気マンマンで一番危ないというややこしさ。今でいうと悪党政治家の大臣に対して官僚としての正義を貫くようなものですが、戦争中は生命までかかっているので容易な仕事ではありません。 

 

彼らの武器は、文官の論理と交渉術のみ。機関車や燃料を調達するたびに求められるワイロの要求にも領収証を書かせ、書式が不備であれば書き直しを求める。戦火を逃れた難民や鉱夫や浮浪児までが列車に同乗してきたために、食糧や酒や停車地での宿泊場所まで世話をする。彼らはそんな問題にも、有能な官僚として対応し続けていきます。

 

バログは創作ですが、上司たちは実在した人物であり、黄金列車の記録文書も残されているとのこと。著者に本書を執筆させたのは、官僚としての矜持すら失おうとしている現代日本に対する危機感だったのでしょうか。紀律と建前によって守られるものもあるのです。著者独特の、背景説明や感情描写を徹底的に削ぎ落した文体は健在です。この人の作品にハズレはありません。 

 

2020/4