りぼんの読書ノート

Yahooブログから移行してきた読書ノートです

いまファンタジーにできること(ル=グイン)

イメージ 1

ゲド戦記西のはての年代記などの良質なファンタジーの著者が語る「ファンタジー論」です。

単なるメッセージではなく、「薄っぺらいファンタジー」を批判する一方で、ファンタジー形態の物語が本来持っているパワーと可能性について、深い考察を加えています。著者の主張をいくつか抜粋しておきましょう。

「いまファンタジーにできること」
ファンタジーで前提とされているいくつかのことが、わたしをいらいらさせる。それは、(1)中世っぽい時代に生きている(2)白人の登場人物たちが(3)善と悪との戦いを戦っているということ。

疑われることのない善と、検証されることのない悪との戦いと称するものは、ものごとを明快にする代わりにぼやけさせます。それは暴力についての単なる言い訳であり、現実の世界の侵略戦争と同じくらいに無益で卑劣なもの。

「内なること」
なんて悲しいこと。たったひとつのキスで静まり返った館、小鳥の歌う荒野が抹消されなくてはならないのか。

「ピーター・ラビット再読」
リアリズムは年齢の枠を超えない。ファンタジーを読む喜びに勝るものは、おそらくそれを再読する喜びだけだろう。

「批評家たち、怪物たち、ファンタジーの紡ぎ手たち」
ファンタジーの基準を用いて近代リアリズム小説を評価すると、視野が狭くて、同時代の人間に関する事柄の日常的詳細に焦点があてられている。写実的描写にとらわれていて、息が詰まるほど想像力に欠けている。しばしば卑小でつまらない。禍々しいほど人間至上主義的。

「子どもの本の動物たち」
狩猟採集者の口承文学においても、大規模産業発達以前の文字文学においても、動物物語という時を超える力強い要素を含んでいるのに対し、大規模産業発達後の社会では動物は大人にとって関心の薄いものとなり、動物文学は概ね子ども向きと考えられている。人間は社会性に富む霊長類であり互いに属することが第一だけど、人類より古くて偉大な自然と結びつかなくてはならないのに。

「YA文学のヤングアダルト
なぜ『ゲド戦記』の第3部と第4部の間に17年もかかったのか。テナーが魔法を捨てて農夫の妻となり2人の子どもをもった、第1章を書いて筆が止まってしまった。テナーに起こったことを理解できなかった。その間に訪れたフェミニズムの第二の嵐が第4部に生かされた。

「メッセージについてのメッセージ」
フィクションの存在理由はメッセージではない。書き手は物語を語るのであってメッセージを語ることはしない。

「子どもはどうしてファンタジーを読みたがるのか―食べるものに注意しましょう」
現実から意味を汲み取るために子どもたちは想像力をフルタイムで働かせている。想像力による物語こそが、その仕事をするための最強の道具。

ファンタジーが巨大な商業的ジャンルになってしまい、うすっぺらでお粗末なものが増えている。妖精の国は危険な場所だったのに・・。

2011/10