「ニューヨーク3部作」の最初の作品が、柴田元幸さんによる新訳で登場しました。「そもそものはじまりは番号違いだった」とはじまり、「偶然以外何ひとつリアルなものはないのだ」と結論づける冒頭の文章から、読者は「ガラスの迷路」を彷徨いはじめます。
ミステリ作家のクランが、人違いされた「私立探偵ポール・オースター」になりすまし、息子を「バベルの塔以前の言語習得」の実験台としたとされる神学教授を尾行し、結局は実体のなかった事件を追い求めていくうちに、自分自身を見失っていく物語。
最後には何者でもなくなってしまうクラン氏とは誰なのか。私立探偵ポール・オースターとは、実在する人物なのか。クラン氏が探し当てた作家のポール・オースターとは作者のことなのか。後に、作家のポール・オースターの責任を問う友人は誰なのか。そもそも本書の語り手は誰なのでしょうか。合わせ鏡のようなニューヨークのビル街に身を置いて、無限に連なる虚像の中に、ついには実像を見失ってしまうような感覚を味わえる作品です。
ところで本書に登場するクランは、そう遠くない過去に妻と息子を失っていて、そのことは彼がアイデンティティを失って錯乱していく原因となっているように見受けられます。後に書かれた『幻影の書』は、やはり妻と息子を事故で失った主人公のデイヴィッドが、映画を通して救済を得る物語だったのですが、「最大の悲劇」として同じモチーフを繰り返して使うあたり、オースターさんは家族を愛している方なのでしょう。
2010/1