りぼんの読書ノート

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能・狂言(岡田利規訳)日本文学全集10

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室町期・江戸初期の文学は、語られ演じられた作品が中心になってきます。それはまるで、ほぼ同時代のシェークスピア文学が戯曲であることと、相似関係にあるようです。

第10巻の冒頭には、能から「松風」、「卒塔婆小町」、「邯鄲」の3編、狂言から「金津」、「木六駄」、「月見座頭」の3編が、演劇作家でもある岡田利規さんの新訳で収められています。

「松風」
世阿弥の代表作である、典型的な夢幻能です。須磨を訪れた旅の僧が、かつて在原行平が愛した2人の海人の幽霊に出会う物語。僧が口ずさむ行平の和歌に心動かされた美貌の幽霊たちが、過去を偲んで舞うのですが、これを鑑賞するには、業平の兄である行平の逸話や源氏の須磨配流といった知識が必要なようです。

卒塔婆小町」
世阿弥の父・観阿弥による「現在能」です。僧侶が卒塔婆に腰かけている乞食の老女にやり込められる物語。実は老女は年老いた小野小町であり、かつて袖にした四位少将の霊に苦しめられていたのです。この作品も、最後の晩に凍死してしまった「深草少将の百夜通い」のエピソードが前提になっています。

「邯鄲」
世阿弥の息子もしくは娘婿の作品とのことですが、うたた寝の間に50年の生涯を夢に見る邯鄲の物語を、「夢幻能」の構造を利用して巧みに劇化した構想力が特筆に値する・・と解説にありました。言われてみれば、その通りです。

「金津」
一方の狂言を楽しむには、予備知識など不要でしょう。地蔵を彫る仏師を探して上京した田舎者が、詐欺師に騙される物語。わざわざ運んだ地蔵は、動かないように身体を強張らせた詐欺師の息子であり、しかもお供え物や酒まで要求されてしまうという物語。都の観客は田舎者を馬鹿にして楽しんだのでしょうし、田舎の観客は自分はそこまで愚かではないと思ったことでしょう。

「木六駄」
吹雪の峠を越えて、手作りの酒とそれぞれ六頭の牛に積んだ薪と炭を運ぶよう命じられた太郎冠者が、峠の茶屋で酒を飲み干し、六駄の薪を置いて行ってしまう物語。主人の手紙に「木六駄を送った」とあると届け先から責められた太郎冠者は、「自分は木六駄と改名した」と言い訳をするのです。落とし噺ですね。

「月見座頭」
不思議な感覚の物語。盲人と月見を楽しんだ粋人が、帰り道に別人と偽って盲人をいたぶるのです。匿名になると悪意を顕にする人間性は、ネット時代のはるか前からあったようです。

2017/2