りぼんの読書ノート

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地下道の鳩(ジョン・ル・カレ)

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「スパイ小説の巨匠」というより、もはや英国文学界の至宝ともいうべき著者が、昨年12月に亡くなりました。本書は著者の回想録ですが、カバー裏に「この回想録で明かされる真実」として、下記の7項目が箇条書きでしめされています。中でも「小説の登場人物のモデル」の話が抜群に面白い。著者の作品をひとつひとつ思い出しながら読みました。

・イギリスの国内諜報機関MI5と対外諜報機関MI6に在籍していたこと

・詐欺師だった父親の奇想天外な生涯と、母親、家族のこと

・ジョージ・スマイリーなどの小説の登場人物のモデル

・中東などの紛争地域での取材やソ連崩壊前後のロシアへの訪問

・二重スパイ、キム・フィルビーへの想い

・PLO議長アラファトソ連水爆の父サハロフ、サッチャー首相らとの出会い

・作家グレアム・グリーン、ジョージ・スマイリーを演じたアレック・ギネスキューブリック、コッポラなどの映画監督との交流と、実現しなかった数々の映画化の企画

 

『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』から『スマイリーと仲間たち』に至る3部作で主役を務めた老練のスパイ、ジョージ・スマイリーの内面のモデルは、オクスフォード大学時代の恩師であったヴィヴィアン・グリーンなる人物だとのこと。スイスアルプスとドイツ芸術を愛するヴィヴィアンは、常識から外れて詐欺師的な人生をおくった父親ロニーに代わる、理想の父親像だったのでしょう。もっとも外面的なイメージは、映画でスマイリー役を演じたアレック・ギネスに取って代わられてしまっていますが。スマイリーの宿敵となる二重スパイのビル・ヘイドンのモデルがキム・フィルビーであることは言うまでもありませんね。

 

『スクールボーイ閣下』のジェリー・エスタビーのモデルは貴族の血を引く大男で、ベテランの外国特派員で英国諜報部員でもあったピーター・シムズ。14歳の心を持つ40歳の男性とは、シンガポール、香港、バンコクサイパンとアジア各国で何度も出会ったとのこと。

 

『リトル・ドラマー・ガール』でイスラエルリクルートされてパレスチナ戦闘員として潜入するチャーリィのモデルは、著者の実妹で女優でもあったシャーロットだそうです。もっとも映画化に際して著者の推薦にもかかわらず、この役はダイアン・キートンに振られてしまいましたが。

 

著者はソ連解体時代のロシアを「ワイルド・イースト」と呼び、ロシア・マフィアを登場させた小説を3冊表しています。その中でももっとも魅力的なのは『われらが背きし者』のディマですが、実際に取材したマフィアのボスは威圧的ではあったものの、そこまで魅力的ではなかったようです。

 

誰よりも狙われた男』で無実ながら国際的に指名手配されるチェチェン出身のイッサは、グアンタナモに5年間収容された後に解放されたトルコ系ドイツ人のクルナズの実話に基づいています。著者はクルナズの救援のための活動にも参加しています。『ミッション・ソング』でコンゴ東部キヴ地方の平和的な自立を目論んだ偉大な政治家ムワンガザと通訳サルヴォは、著者の理想を体現するための創造ですが、敵対しあう武力勢力の将軍たちの人物造形は取材によって得たもの。

 

もっとも魅力的に思えたのは、クメール・ルージュが迫るブノンペンに食料や医薬品を運んだり、危険地域から子供や母親を救出するために古い単発機で飛び回った女性パイロットのイヴェット。ブノンペン陥落間際に彼女は、クメール人の孤児たちを大勢連れてフランス領事館に赴き、全員が彼女の子供たちだと言い張ってパスポートを申請したのです。これでパスポートを発行したフランス領事も粋ですね。彼女は後にコソボ難民支援中に峡谷に落ちて亡くなっています。『スクールボーイ閣下』のパイロット、チャーリーのモデルですが、時代も舞台も異なる『ナイロビの蜂』のテッサは、彼女の活動に触発された人物だとのこと。

 

著者の作品は数多く映画化されていますが、最も好きだった『ロシア・ハウス』でミシェル・ファイファーが演じたカーチャについての言及がなかったのは残念でした。もっともこの映画の結末は、原作と正反対のものになってしまったので、著者にとっては継子なのかもしれません。ついでながら『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』を2011年にゲイリー・オールドマン主演で映画化された「裏切りのサーカス」の続編も、ぜひ期待したいものです。

 

2021/1