りぼんの読書ノート

Yahooブログから移行してきた読書ノートです

金毘羅(笙野頼子)

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40歳を過ぎて自分が金毘羅だったことに気づいた「私」の物語。1956年3月16日に、四日市に生れ落ちた瞬間に死亡してしまった赤ん坊。金毘羅である「私」は、その女児の肉体に宿り落ち、自分の正体を知らないまま40数年、人間の女性として生きてきてしまったというのです。

男社会の中で女性であったこと、モテなかったこと、他人と交流できなかったこと、そんなことは、金毘羅である「私」には当然だったわけで、性別も、種も、肉体も全部一気に飛び越えてしまった「私」にとっては、そんなの関係ないんだも~ん。

金毘羅の本質は「習合」なのです。遠い起源であるインドのクンピーラ神が、権力者の神に追われた土俗の神と習合し、権力に抵抗する神として日本に舞い戻り、土着の神と習合を繰り返しつつ、時には権力者の側についた下っ端の神すら習合によって乗っ取り、今なお各地でしたたかに生き延びているのが金毘羅。

金毘羅は人間を嘲笑します。「私などない」と言ってる人間は、「自分だけが絶対者で特別だ」と思っているだけ。「テロで文学が無意味になった」なんていう人間も、「自分は死んでいません」。でも、そういう「私」だけは金毘羅として特別の存在なんじゃないの?

どうやらそうではなさそうです。金毘羅である「私」には、家族も、村社会も、ギョーカイも不要であり、物書きである「私」は、言葉を吐き続けられれば、それでいいということなのですから。つまり、「私」が「私」であるためには、金比羅になる必要があったんですね。この激しさ、気力・体力ともに充実している時でないと、読んではいけません。

2008/1